こころの声を綴って ー場面緘黙症と歩む日々ー

場面緘黙症を含めた不安障害とうつ病、SEKAI NO OWARIについてなどを書いていきます。

ダンスサークルとパニック発作

 綺麗だ。

 私は、大学の門を入ってすぐ、チャペルの前で足を止めた。

 そこには煌びやかに光を放つ大きなもみの木が立っていた。

 住宅のささやかなイルミネーションを除けば、今年初めて見るイルミネーションだった。私は思わず鞄からスマホを取り出して、写真を撮った。辺りは真っ暗で、門の方へ歩いて行く学生しかいない。今からキャンパス内に入っていくのは、私だけのようだった。

 こんな真冬の夜にわざわざ休学中の大学を訪れたのは、ダンスサークルの見学をするためだった。

 4月からの復学を目指して、居場所を増やすことを目標にした。授業だけでなく、もっと言えば大学だけでなく、どこか私が安心して居られる場所。高校を卒業して失ったそれに代わるものを探した。

 調べると、F大学にはk-popのコピーダンスサークルがあることがわかった。思い切ってインスタで連絡してみると、未経験者でも休学中でも私を歓迎してくれた。そして今日が、約束の見学日だったのだ。

 活動場所として教えられた体育館は、縦に長いキャンパスの中の一番奥にある。私は白い息を吐きながら、暗い道を進んだ。

 体育館前に着いたのは、ちょうど約束通りの時間だった。でも、勇気が出ない。帰りたくなったらどうしよう。体調が悪くなったらどうしよう。コートをきゅっと握って、体育館前に立ち尽くしていた。

 ここまで来たのだ。帰ったら絶対に後悔する。数分かけて、私は腹をくくった。

 見ているだけでいい。嫌になったら、帰ればいい。

 体育館の入り口、自動ドアが開く。言われた通りに右手のサブフロアを覗くと、10人程度の学生たちがダンスを踊っている最中だった。その中の一人と目が合う。彼女は私に気が付き、もう一人の学生を連れて入り口まで走って来てくれた。

「こころちゃん?」

 インスタでは苗字しか名乗っていなかったのに、どうして下の名前を知っているのだろうと内心首を傾げながら、「はい」と返事する。後から考えてみれば、インスタの名前が下の名前だったのだ。

 私を出迎えてくれたのは、部長さんとインスタでやり取りをした2年生だった。言われるがまま、スリッパに履き替え、フロア内の椅子に座る。そこで時折ダンスサークルの説明を聞きながら、活動を見学していた。

 ……怖そう、ではないな。

 しばらく見ていてそう思った。4月から、自分がここで彼女たちと踊っている姿が、少しだけ、ほんの少しだけ想像できた。

 予定より早く練習が終わり、お礼を言って帰る。

 できた、できた。一歩進めた。帰り道、イヤホンでクリスマスソングを聴きながら、満足感に包まれていた。

 帰りの電車は少し混んでいた。ヘルプマークはつけているけれど、杖を持っていないからか、席を譲ってくれる気配はなさそうだ。いつまでも、他人の善意があると思ったらいけない。そう思って、車内の中央、サラリーマンに囲まれながら何とかつり革を掴んで、終点に着くのを待った。

 辺りをキョロキョロと見回して、わけもない不安が芽生え始めたのは、終点に着く直前だった。あ、これ……。嫌でも覚えのある息づらさにさらに不安が膨らむ。

 終点の駅に着いてドアが開いた瞬間、逃げるように電車を降りた。とても歩ける状態ではなくて、ホームの壁に寄りかかりながら呼吸を整えようとする。でも、過呼吸が酷くなる一方だった。あ、これは、ダメだ。鞄から薬を取り出すこともできずに、手で口を覆う。周りの視線が怖くて、目を瞑る。イヤホンからは、まだ呑気にクリスマスソングが流れていた。次第に、全身が痺れて来る。わかっていた。ここまで来たらもう、自然と過ぎ去るまで終わらない。

「大丈夫ですか?」

 周りの雑踏が遠のいていた時、頭の上からそんな声がした。私は何とか目を開けて、「……ああ、大丈夫、です」と言ったけれど、とても大丈夫そうには見えないだろうなと思っていた。

 目の前に立っていたのは、母と同い年くらいの女性だった。

「体調悪い?」

「すみません。ちょっと……パニック発作で」

 私の声にならないほどの訴えを聞いて、女性は納得がいったように頷いた。

「そっか、そっか。……駅員室で、休ませてもらおうか」

「……はい」

 正直、駅員室に行くのは怖かった。でも、通りすがりのこの女性に、これ以上迷惑かけられない。

 彼女に全体重を預けるようにして、ホームから駅員室までの数メートルをふらふらと歩いた。思っていたより足がおぼつかなくて、頭も上がらない。過呼吸も止まらない。知らない人の腕をこんなに借りるのは、初めてのことだった。

 女性が駅員室の扉をノックし、中から駅員さんが出て来る。

「ちょっと、パニック発作が起きちゃったみたいで……。パニック障害なのかな?」

 女性の問いかけに何度か頷く。

 駅員さんに案内されるまま、駅員室の隅にあるベッドに横になった。女性は私の靴を脱がして、スマホや鞄をベッドに置いて、イヤホンを外してくれた。「ありがとうございます……」という弱々しい声が彼女に届いたかどうか、今でもわからない。私はとにかく、正常な呼吸を取り戻すので必死だった。

「救急隊は、呼ばなくて大丈夫ですか?」

 そう言う駅員さんの声にまた何度も頷いた。

 私がベッドに横になったのを見届けて、女性が駅員室から出て行く。駅員さんが「30分をめどに声かけさせてもらいますね」と言って扉を閉める。そうしてようやく、一人になれた。

 寝かせてもらったのに申し訳ないけれど、私はパニック発作が起きている時、寝ているよりも体を起こしている方が楽だ。水筒を持っていたので、そこでようやく薬を飲んで、時間が過ぎるのを待った。母に連絡しようかとも思ったけれど、心配をかけるだけのような気がして、スマホを鞄にしまった。

 20分ほど休むと、徐々に意識がはっきり戻って来る。駅員室の天井はボロボロで、壁紙が剥がれかかっていた。外から駅員さんたちの話し声が聞こえる。そうか、普段ロボットのように見えている駅員さんたちも、ちゃんと人間なんだなと思った。

 靴を履いて、鞄を持って扉を開けると、駅員室全体の視線を浴びる。思わず、「すみません……」という声が漏れる。私は、この数十分間で何度謝っただろうか。

 駅員さんに事情を簡潔に説明して、名前と年齢、電話番号を紙に書かされる。最後にもう一度お礼を言って、駅員室を後にした。

 駅から家まで徒歩20分ほどある。普段はバスに乗ることが多いけれど、また発作が起きるのが怖くて、疲れていたけれど歩いて帰った。昼にお散歩することはあっても、夜に外に出ることが滅多にないから、夜空に輝く星々が新鮮に映った。家のリビングに明かりが灯っているのを確認した時、何だか泣きそうになった。

 夜から始まった一日が、とても長く感じた。

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私の口になってくれた家族へ

 家族には何年もずっと、私の「口」になってもらっていた。

 飲食店で注文をする時も、服屋で店員さんに話しかけられる時も、学校とのやり取りも、宅急便や電話の対応も。10年以上そうだったから、もはや私が口を開く、他人とやり取りをするなんて選択肢は、私はもちろん、家族の中にもあってないようなものだった。

「こころは話せないから」

 誰かがストレートにそう言ったことはないけれど、それはいつからか私たち家族の中に自然と共有されていた常識だった。

 だが、そんな私が場面緘黙症を克服し始めた。

 つまり、家族以外との他人とも、話せるようになったということだ。

 家を訪ねて来た宅急便にも対応できた。受け取った荷物を抱えて嬉々として家に戻ると、常に口が悪い弟でさえも、「え、マジで?成長じゃん」と褒めてくれた。

 

 そんな私は今、必死に言語を勉強している。

 元々、日本語は好きだった。書くことも読むことも。漢字検定も何度も受けていたが、うつ病になって漢字からは離れてしまった。でも、もう少し余裕が生まれれば、また挑戦したいと思っている。

 あとは英語と韓国語。英語は小学生の頃から授業があったが、それは小学生向きの、音楽に合わせて英語で歌ったり、踊ったりするものだった。フレンドリーな外国人の先生も苦手で、場面緘黙症の私にとって英語の時間は苦痛以外の何ものでもなく、英語の授業がある日はほとんどすべて欠席していた。

 中学生になっても、やはり言語を学ぶためにはコミュニケーションが伴う。頑張って話しても小さな声しか出せない私は、英語を学ぶことより声を出す不安の方にばかり気持ちが傾いて、いつしか英語自体が嫌いになっていた。

 韓国語に出会ったのは、高校の希望者が受けられるオンライン授業だった。授業表を見た母が、「韓国語とか受けてみたら?好きだと思うよ」と言った。正直、私は納得しなかった。

「英語も苦手なんだよ。韓国語なんてあんな、暗号みたいな言語、私にできるの?」

 そう思ったけれど、結局他にすることもなかったので、軽い気持ちで受けてみた。

 他言語を、初めて面白いと思えた。日本語と文法がほぼ一緒だったからなのか、オンラインで声も顔も出さなくていい授業だったからなのか、理由はよくわからない。でもとにかく、韓国語を学ぶのは楽しかった。テストも何もないけれど、私は独学で韓国語の勉強を進めた。

 英語に心を寄せられたのは、最近のことだ。ふと、自分の英語能力の低さに危機を感じて――以前なら「それでもいいや」と思っていただろうけれど、気が付いたのだ。「私、苦手だったのは英語じゃなくて、しゃべることだったんだ」と。

 他言語を話せるようになることは、その分たくさんの人と直接コミュニケーションが取れるということ。場面緘黙症を克服した今の私に、それを怖がる必要は全くなかった。

 同じ言語を使う人たちとすら、話せなかった。その経験があるから、コミュニケーションを取れる幸せを人一倍わかっている。

 

 そしていつか、家族で韓国旅行に行きたい。韓国語がわからない家族の代わりに、私が通訳したい。

 今度は私が、彼らの「口」になりたい。

 それが、今の夢なのだ。

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自由な世界

 10年以上抱えていた、場面緘黙症がほとんど完治した。

 高校で声を出す練習を始め、そのまま時間に流され大学生になった。確実に良くなってはいるものの、逆にうつ病やパニック障害が悪化したり、後遺症のように声が出ない瞬間が訪れたり、簡単な道のりではなかったし、今もまだ旅路の途中だ。それでも、頑張れば普通の人と遜色ない程度にまで回復できた。

 私はまるで生まれてからずっと高い塔の中に閉じ込められていたプリンセスのように、みんなの「当たり前」に出会うたび、「これが自由なのね!」といちいち感動を覚えるのだった。

 例えば、お買い物に行ったら、自分でお会計ができる。

「ポイントカードをお持ちですか?」

「レジ袋はお付けしますか?」

 そんな質問に怯える心配もいらない。

「こんなの、生まれて初めてー!」

 そう両手を広げて、街中を走り回りたい。

 だってもう、白い目で見られることもない。変な空気に陥れてしまうこともない。透明人間でもないのだ。

 母と一緒に街を歩いていると、必ずと言っていいほど彼女の知り合いに会う。仕事やPTA、市の役員など、顔が広い母には、知り合いがたくさんいるのだ。「あ、月島さん」とこちらに手を挙げる知らない大人に向かって、私は笑顔で「こんにちは」と言えるようになった。隣の母を見て、密かに思う。こんな娘なら、恥ずかしくない?――もう、謝らなくてもいいよね。

 ようやく自由な世界に放たれた私は今、泣きそうなほどに嬉しいのだ。

 自分の意思で声が出なかった。それがいかに私の人生を邪魔していたのかが、自由になってからよくわかった。

 私が怖がっていた世界は、思ったより怖くなかった。私が怖がっていたのはこの世界じゃなくて、この世界に適応できなかった自分だ。適応させてくれなかった病気だ。

 昔、思っていた。

 私の「理想」は誰かの「普通」で、私の「普通」は誰かの「甘え」。

 その「理想」が、「普通」になったのだ。今になって、過去の私は決して甘えていたわけじゃないと断言できる。でも、ひとたび外に出れば、一人でできることはほとんどなかった。現実を悲観し、自信を失うのも当然のことだったと思う。

 「理想」が「普通」になった。でも、最初から持っていた「普通」じゃなかったから、その幸せをよく知っている。

 私をこの自由な世界に導いてくれた家族、友人、先生方、そして他でもない自分自身に、心から感謝を述べたい。

 ありがとう。

 私は今、この世界で生きることができて、本当に嬉しい。

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場面緘黙症と生理

 私は小学3年生から10年以上場面緘黙症を抱えて生きている。それは小学校でも中学校でも高校でも、晴れの日でも雨の日でも、嬉しくても悲しくても変わらない現実だった。

 私は中学1年生の頃、初潮を迎えた。その頃はもう学校に行けていなかったので、困ることはなかった。

 問題に直面したのは、高校に入学し、毎日登校するようになってからだ。

 生理の日は、当たり前だが、数時間に一回ナプキンを交換しないと血が漏れてしまう。それを緘動に縛られた学校生活の中で送るのは難しかった。

 授業と授業の合間の休み時間だけでは教室からお手洗いに行って、また帰って来られるほどの時間がない。緘動の影響でいつも動きがゆっくりな私は、人の3倍くらい行動に時間がかかった。だからナプキンを交換できるのは、お昼休みの45分間だけだった。

 まず、登校する前に新しいナプキンをつける。大きいサイズのものじゃないと、漏れるんじゃないかと不安だった。それで何とか、午前中をしのいだ。

 お昼休みに何とかお手洗いに着くと、真っ赤に染まったナプキンと対面した。危ない。あと少し放置していたら、漏れていたかもしれない。私はスカートに血がついていないか入念に確認し、スカートのポケットに忍ばせておいたナプキンを取り出した。毎日、登校する前に、家で代えのナプキンをティッシュに包んで、制服のポケットに入れていた。学校だと鞄からポーチを取り出すのも難しいので、落とさないように気を付けながらナプキンを持ち歩いていた。そこでようやく交換し、また午後の授業に戻る。

 幸い、私は生理が重い方ではなかった。耐えがたい生理痛に悩まされることも、出血量の多さに気が滅入ることも、ほとんどなかった。でも不安はずっと離れなかったのだ。

 どこまでも用意周到な私の性格と、忘れてしまったら終わりだという緊張感から、3年間一度も生理の日にナプキンを持ち忘れたことはなかった。でも、思い通りに動けない中で迎える生理は不安だったし、不便だった。何より、この世界は、生理であることを隠したまま生きることを前提にできている。それが、ただでさえ動けない私の不自由を、さらに大きくしていた。

 この記事を読んだ人の中には、「赤裸々に語ってるな」と思う人がいるかもしれない。確かに「生理」という、女性同士でもタブー視されつつある話をここまで詳細に書く必要はなかったかもしれない。ただ私は、場面緘黙症という病気があらゆる生活の中で自分の邪魔をしてくるのかを伝えたかった。近くにいる他人にすら、なかなか伝えられないこと。この記事を出してみた私の勇気が、いつか誰かの勇気に繋がるといい。

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12月の散歩

 鯉にひげがあるなんて、知らなかったな。

 近所のお寺の境内で、池の中を覗き込みながらそう思った。

 毎日のように訪問者から餌をもらっているであろう鯉たちは丸々と太っていて、私の姿を見つけたからなのかこちらに寄って来る。ごめんね、私、餌は持ってないんだ。

 12月。私は毎日40分ほどの散歩ができるまで回復した。杖を使わず、この脚で歩く。近所のお寺を目的地として、その辺りを一周する。お寺で病気の寛解と楽しく大学に通えること、私にも居場所ができることをお祈りして、池で鯉たちに会って、お墓の中を通り抜けて境内を出るのがいつものコースだった。耳にはいつもイヤホンを突っ込んでクリスマスソングを聴いていたけれど、流石にお祈りする時は縁起が悪い気がして音を消していた。

 目の前で行き交う車に、飛び込もうとは思わなかった。すれ違う人々が、私を睨んでいるようにも感じられなかった。

 坂の上から、沈んでいく夕日を見ながらふと思った。

 もしかすると、世界は私が思っているよりもずっと、美しいのかもしれない。

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愛の方程式

 ドラマや映画、音楽や小説の中から得た私の知識によると、親は自分以上に子供を大切に思うものらしい。自分のすべてを捧げても構わない。ただ子供の幸せを願う。そういう生き物らしい。

 私は親になったことがないので、親から子供に対する愛情を完璧に理解することはできない。ただ、私は親になったことがないので、子供サイドの愛情なら理解することができる。

 子供は自分以上に親を大切に思う。自分のすべてを捧げても構わない。ただ親の幸せを願う。そういう生き物だ。

 一見、これは素晴らしいイコール関係になっていると思われる。お互いを尊重し、心から愛する。でも時にこれが、両者に痛みを与える。

 私の経験の場合、それは病気だった。うつ病になって、私には希死念慮が訪れた。自分はいない方がいい。今ここに生きているこの瞬間も、周りの迷惑でしかない。死んでしまいたい。今すぐに。

 それが親のためになるのだと、本気で信じていた。私がいなくなれば、きっと楽になると。

 でも母は怒った。「それだけは許さない」と。当時の私は自分のことで手一杯で、そう言われた時は、もう私は生きることも死ぬことも許されないのだと言われた気分だった。

 今になって、あれは私たちがお互いを大切に思うがゆえに起きた亀裂だったのだと思う。楽になって欲しい。死なないで欲しい。それぞれの真っ直ぐな願いが、真っ直ぐすぎるがゆえに交差してしまった。

 私は今でも、両親に幸せであって欲しいと願っている。もし彼らが病気になって、移植が必要にでもなれば、躊躇いなく自分の臓器を差し出したいと思う。

 でも母はそれを拒否した。「子供から臓器を奪ってまで生きたくはない」と。だからきっと、もし母が病気になって、移植が必要になっても、私は自分の無力さを痛感しながら、彼女が弱っていくのをただ見ることしかできない。

 愛することは、愛せることは、この世の何よりも美しいものだ。もちろん、すべての親子がこのような愛情を持ち合わせているとは思っていない。自分の親が愛せなくても、自分の子が愛せなくても、それは自身を責める必要もないことだ。親も子供も、お互いを選べるわけじゃない。愛し合う親子が、たまたま運がよかった。それだけのことかもしれない。

 私はきっと、幸運な家庭に生まれたのだろう。自慢に聞こえるかもしれないが、自分の幸福度を理解せずに、不幸自慢する方が失礼な気がするので、あえてそう書いておく。

 幸運な家庭に生まれて、愛情を受けて育って、苦しみの中にいる時も、家族のことを考えていた。

「あなたに、私より幸せになってもらいたい」

「でも、私はあなたが幸せじゃないと、幸せにはなれない」

 今回の場合は親子だったけれど、これが友人だったり、恋人だったりする場合もあるだろう。私はきっとこれから、たくさんの愛に触れ、癒され、苦しみ、生きていくことになる。

 そして考え続けるのだろう。

 それでもきっと、愛の方程式は永遠に完結しない。

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特別じゃなくてもいい

 ある日、カップラーメンを食べていて思った。

 美味しい。

 あ、これは言うまでもない話だが、大事なのはそこじゃなくて。

 私はラーメンが大好きだ。人気店に並んで食べたこともあるし、病院の帰りにご褒美としてコンビニでラーメンを買ったこともあった。そのすべてが好きだった。

 でも、この安くて、いつ誰が食べるかわからないようなカップラーメンも、私は好きなんだな。

 

「優しい言葉は、たとえ簡単な言葉でも、ずっとずっと心にこだまする」

 これは、マザーテレサの名言だ。

 その言葉を、急に思い出した。

 そうか。大切なのは、特出したものばかりじゃない。

 

 どこかで私は、自分の書く文章が平凡ではないかと恐れていた。

 一丁前にブログを書けるほど、作家を夢見ることができるほど、私には特出した文章力はないんじゃないか。

 どんでん返しの衝撃展開も、難解なミステリーも、私には書けないけれど、だからといって自分を悲観する必要はないんじゃないか。きっと私が書くべきものは、今までの経験を基にした言葉だ。誰にも真似することのできない私だけの「何か」が、そこには無意識に隠れているはずだから。

 私は人間だ。母親の胎内で細胞分裂を繰り返して生まれ、小さな体と心を少しずつ成長させて、痛みも喜びも一身に受けて、今日までこうして生きてきた。

 人にはそれぞれ好きなものと嫌いなものがあるように――そう、私がラーメンを好きなように、個性があるのだ。細い麺が好きな人も、太い麺が好きな人も、濃い味が好きな人も、薄い味が好きな人も、そのすべてが好きな人もいる。

 誰かを羨んで、理想としても、無理に演じる必要はない。

 簡単な文章で構わないのだ。

 きっと私が書くべきなのは、それ以上に優しい言葉なのだから。

理由がなくてもいいんだよ

 「いいな」と言われたことがある。

 「病気があって、入院できて、ちゃんと『許される理由』があっていいな」と。

 私の苦しみを軽視されたようで、悔しかった。でもその反面、納得してしまう自分もいた。返せる言葉が見つからなかった。

 そうだよな。考えてみれば私も、病名がつくまで、個性と病気のラインが引けずに、「理由」がないまま普通の生活を送らなければいけないのは、本当に大変だった。

 世間はいつでも、「理由」を求めるから。

「何で泣いてるの?」「何で苦しいの?」「何で死にたいの?」

 そう訊かれるたびに私は、「何で?」と思っていた。

 何で、理由がないといけないの?

 わかっている。苦しいのは「何となく」であること。周りを納得させられるような「理由」がなくて、それなのに抱いてしまうこの感情を、誰にも受け止めてもらえないこと。明確な理由もないのにこんな気持ちになってしまうことが、一番苦しいのに。

 そこまで言語化できるようになったのは、その問いを抱えてから十何年も経ってからだった。

 だから、今の私から伝えたいこと。

 

 理由がなくても、「苦しい」と言っていい。感じる気持ちがあるのなら、そこに嘘も偽りもないはずだ。

 でも、多分、世の中はそんなに甘くない。理由がなければ、休むことも許されない。私たちが生きているのは、そんな意地悪な世界だ。

 でも、誰も信じてくれないのなら。せめて自分だけは自分の味方でいて欲しい。

 こんなことを書いている私も、全然自分の味方になれない。幸せなことに、周囲の人たちは私のことを理解して、守ろうとしてくれている。それなのに、私は、私だけは、いつまでも自分に冷たく、毒を吐き続けている。自分を好きになろうと、誰よりも味方でいようと、努力した。でもやっぱり、希望を抱くことが怖い。

 そう。本当は、怖いだけなのだ。「大丈夫っしょ」と現実を軽視して、余裕をかましていたら、いつか大きな絶望が、私を迎えに来るんじゃないか。希望を見てから絶望を感じた時ほど、辛いものはない。それなら、最初から希望なんか持たない方がいい。今までの経験から自分を極限傷付けないようにした結果、働いたこの思考は、きっと一種の防御反応なのだろう。

 ……こんな私が書いた文章には、説得力がないかな。

 ただ、年齢も性別も職業も関係なく、理由なんかなくても、涙を流してもいい。「苦しい」と言ってもいい。そんな世界であって欲しいと、心から願っている。

 

 自分の痛みを、せめて自分だけは、認めてあげて。

 何の計画性もなくこの記事を書いていて、ふと思った。

 

 これはきっと、私が私に言いたかった言葉なんだ。

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うつ病の誤解

 うつ病の当事者として、今の社会に思うことがある。

 うつ病は、その症状を多少誤解されているのではないかと。

 

「俺、マジ鬱」
 そういう言葉をよく聞く。

 鬱=「だるい」「面倒くさい」。そんなニュアンスが広まっているからこそ、簡単にそんな言葉を口にして欲しくないと思う。

 

 実際、私もうつ病を患う前は、「うつ病ってあれでしょ?気分が落ち込んで、死にたくなったりする病気でしょ?」と思っていた。うつ病を説明される時に使われる画像などは、人が真っ暗な部屋の中で頭を抱えていたり、座り込んでいたりするものが多い。

 うつ病になってから、そういう画像を見て思った。

 これは、リアルじゃない。

 一番症状が酷かった時は、座ることもできなかった。一日中、それが何か月も、場合によっては何年も、ベッドの中から抜け出せずに、光の見えない世界を生き続けなければならない。

 うつ病は甘えでも怠けでもなく、大袈裟でも冗談でもなく、本当に動けなくなる病気なのだ。ベッドから起き上がれない。トイレにすら行けない。お風呂なんて入れるわけがない。実際に経験した私もなぜそうなってしまうのか理解できなかったから、きっと経験したことがない人が理解するのは不可能に近いと思う。

 うつ病は動けないだけじゃない。気分の落ち込みも伴うものだが、それも「気分の落ち込み」なんて言葉では片付けたくないほどに抗えないものだった。

 テストの点が悪かった。友達と喧嘩した。仕事で怒られた。気分が落ち込むことは、生きていれば誰だってあるだろう。打たれ弱い私も、今までの人生の中で何度も落ち込み、泣いて、自暴自棄にすらなった。

 でもうつ病の気分の落ち込みは、次元が違った。自分の中だけでは収まらずに、叫び続け、たくさんの薬を飲んで鎮静させないと生き延びられないほどに。例えるのがすごく難しいのだけれど、とにかく自分の力でどうこうできるものじゃない。死神が乗り移っているようで、思考、行動、感情、意欲、私の中にあるものを、すべて奪っていく。残ったのは、死んで欲しい自分と、果てしない絶望だけ。そんな世界で生きていくことが嫌になるなんて、言うまでもないと思う。

 うつ病は日常的な感情の延長線上にあるような病気じゃない。これからもいくつもの困難に直面していくであろう私だけれど、もうあれ以上の苦しみはこの世にないと本気で思うほど、生き地獄だった。あの日々を生き抜いたことが奇跡だとまで思う。

 うつ病は、人によっては命懸けの病気なのだ。

 それなのに、どこか軽視されがちである。体の病気と同じで、気合や根性でよくなるものではない。家の中でだらけて、安らかに眠っているわけじゃない。生死の狭間を悶え苦しみながら生きているのだ。

 私は、ただ悔しかった。自分の過去を否定されるのも悔しいけれど、同時に、これから同じような苦しみに遭う人たちが、あんな扱いを受けると思うと、今から悔しくてたまらないのだ。

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いろんな恐怖症を乗り越えて

 対人恐怖。赤面恐怖。スピーチ恐怖。電話恐怖。視線恐怖。会食恐怖。振戦恐怖。書痙。子供の頃から、本当にたくさんの恐怖症を抱え、一つずつ乗り越えてきた。未だ乗り越え切れていない恐怖症もある。

 今思うのは、恐怖症というものは、周囲の人間の理解にかかっているということ。

 様々な恐怖症を10年ほど抱え、大人になった今、私は自分のことがようやくわかってきたし、周囲の人間もよく理解してくれている。けれど最初からそうだったわけじゃなかった。

 恐怖症は、目に見えない。

 だから、簡単には信じてもらえない。自分が抱えている不安度が数字になって見えたらどれほどいいかと、何度思ったかわからない。

 それでも、少しずつ自分の苦しみを言葉で伝え、病名がついて、配慮のある高校で居場所を見つけた。

 

 子供の頃、私が欲しかったのは、「病名」だった。

 病院は苦手で、怖い場所ではあったけれど、その勇気を捧げてもなお、「病名」が欲しかった。あの頃の私にとって病名とはつまり、「普通ではないことを許されるための称号」だったのだ。その称号がもらえれば、周囲の理解が進むと思っていたし、実際そうだった。

 病名がついてからは、周囲の対応が少しずつ優しくなった。それは病気であることが判明したからというよりも、病名がわかったことで対応方法が判明したからのようだった。

 自分自身も、謎に包まれていた自分のことを知るきっかけができた。ああ、そうか。病気だから、だから私はできなかったんだ。そう思うことで、自分の中にあった罪悪感が薄れて行った。

 それでも、病名がついたからといって、病気がよくなるわけではなかった。高校に進学しても、私は多くの恐怖症を抱えて生活していた。人の目すら見られないし、音読もできないし、教室でお弁当も食べられない。担任の先生との二者面談では、筆談でやり取りをしたけれど、緊張のあまり手がブルブルと震えて、簡単な漢字すら間違えてしまった。そんな自分を恥じ、貶し、泣いたこともたくさんあった。

 

 今、大学生になった私は、ほとんどの恐怖症を克服した。

 最初は、先生と一対一でお話しをして、一文節ずつ話せるようになった。それから、仲良くしてくれたクラスメイトを引き入れて、少しずつ話せる人の輪を広げていった。教室で「おはよう」と言えるようになってから、音読にも挑戦した。勇気を振り絞って、鏡で何度も自分の顔を確認して、インターフォンにも出られるようになった。

 闘って、壊して、仲良くなって、乗り越えて、たどり着いた「今」は、とても自由な世界だった。数年前の私が、想像もできなかったほど。自分の意思を、自分で伝えられる。お買い物もお散歩も、一人でできる。私は今、そうした些細な自由に出会うたびに、いちいち感動しながら生きている。

 だからこそ思うのだ。あの日々を、よく生き抜いたものだと。

 幼い頃の私に言いたい。何の言い訳も許されず、一人で泣いている少女が目の前にいるのなら。

 彼女を抱きしめて、言いたい。

 よく頑張ってるよ。あなたの抱えている生きづらさは、あなたのせいじゃない。困難なことはたくさんあったよね。でも私は、あなたのおかげで、今もこうして生きている。

 闘ってくれて、ありがとう。

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