こころの声を綴って ー場面緘黙症と歩む日々ー

場面緘黙症を含めた不安障害とうつ病、SEKAI NO OWARIについてなどを書いていきます。

救われた音の記憶 #16 『Fanfare』

 こんにちは。架空のラジオ番組、「救われた音の記憶」のお時間です。

 このコーナーでは、毎回一つ、私が様々な病と闘う中で出会い、救われた楽曲などを紹介します。

 

 今回のゲストは、TWICEの「Fanfare」。

 19歳の私から、お便りが届いています。

 

 うつ病で大学を休学することになって、真っ先にこの曲のことを思い出しました。

 この曲がリリースされたのは、私が中学生の頃。ちょうど、学校に行けずに、家にひきこもっていた日々の中でした。

 あの時、世間ではアイドルグループNiziUを発掘したオーディション番組、「虹プロジェクト」が流行っていて、私はその番組を通してこの曲に巡り合いました。

 始めは、夢を叶えた者たちが過去の自分を応援するような、そんな歌に映っていました。この曲を歌えるのは、「今」が成功した人だからなんだろうな。そう思うほど、画面の中のTWICEは輝いて見えました。

『止まんなきゃ気付かない景色だってある

 辛い時は無理しなくていいから

 泣いてもいいの 我慢しないで

 ナミダ 雨の後は虹が見えるはず』

 でも「Fanfare」は次第に、立ち止まったまま何もできない私にも向けられた応援歌のようにも感じました。

 中学生の頃と同じように、再び立ち止まってしまった自分。それでも、周りの時間は進んでいく。周りの時間だけが進んでいく。置いて行かれる気がして、焦って、自分を大切にすることを忘れそうでした。その時に久々に出会った「Fanfare」は、やっぱりまだ私の味方でいてくれました。

『夢じゃまだ終われないなら 諦めないで さあ』

 痛みは、時と同時に少しずつ流れ、今は少しだけ、前を向くことができています。失敗してもいい。遠回りしてもいい。ただ諦めなければ、きっとどこかで、生きていくことはできるから。

『やり直せばいい 何回だって

 繋いだ手 離さないから 約束しよう

 Always by your side(どんな時もそばにいるよ)』

 一度挫折したところから、どうやって起き上がればいいのか。不安は尽きないけれど、それでも立ち止まったから見えたこの景色を、私は忘れずにいたいと思います。

 

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高校時代のお守り

 高校生の時、沖縄に修学旅行に行った際、美ら海水族館で担任の菊池先生にカメのぬいぐるみキーホルダーを買っていただいた。クラスメイトだった響ちゃんたちと、お揃いのキーホルダーだ。

 私は修学旅行から帰って来てから、ずっと通学用の鞄にそのキーホルダーをつけていた。

 何を考えているかよくわからない顔をしているそのカメは、常に不安を抱えている私とは対照的に見えた。

 大学受験の日。行きの車の中で、カメをぎゅっと握りしめていた。

 大丈夫、きっと、上手くいく。

 今日のために積み重ねて来た日々を思い返す。もう何か月も前から、私はこの日をずっと恐れていた。うつがやって来た日のことを思い出す。すべての元凶は大学にあるのだと確信できるほど、三者面談のあの日から体調を崩しながら、受験の準備を進めてきた。

 外部の先生をお呼びして、面接講習会を受けた時、私は一人だけ見学していた。夏休みに面接練習に行った時は、あまりの緊張から練習後にパニックを起こした。

 そんな私が、面接なんて。

 どれだけ薬を飲んでも止まらない不安が、カメを握っていることで徐々に収まっていく。会場には両親も入れないし、知り合いの一人もいなかったけれど、最後まで私のそばにいてくれたのはカメだった。

 大丈夫だよね。きっと、上手くいく。

 彼と目を合わせて、そう思った。

 

 受験だけに限らず、不安なことがあるたびに、私は縋るように鞄からぶら下がっているカメを握った。

 お願い、少しだけ、力を貸して。

 そのカメに触れている間だけ、菊池先生が守ってくれている気がしていたのだ。私は、一人じゃない。そう思うことができたのだ。

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苦しい時の過ごし方

 うつ病でどうしようもなく苦しんでいた時、藁にも縋る思いで色々なことを試した。

 緊張しながら鍼やお灸治療に行き、カイロプラクティックに行き、整体に行き、ヘッドマッサージも受けた。著名な精神科医が書いた本をいくつも母が買って、調べてくれて、「いい」とされていることはできる限りやったつもりだ。でも、どれも長続きしなかったし、その理由は緊張する割に効果を感じられないからだった。それどころか、帰り道に疲れ果てて、泣きながらバスに乗り、停留所に着いた後もどうしても死にたい気持ちが消えずに、車が行き交う道路を何分もじっと眺めていたことだってある。今すぐ駆け出して、撥ねられてしまいたい。もう一秒だって生きていたくない。そんな気持ちをぐっと堪えて、地面の上に立っていた。

 

 結局いくつもの経験を経てたどり着いたのは、鍼でもお灸でもカイロプラクティックでも整体でもヘッドマッサージでもなかった。

 家で発作的なうつ症状が起きた時は、本物の私にアプローチをかける。本物の私とは、うつに取り憑かれた私の奥に眠っている私だ。どうやら、五感に訴えかけるのが重要らしい。アロマ、保冷剤、テレビを点ける、動画を流す、甘いものを食べる。嗅覚と脳は繋がっているから、特に香りなどの、脳にダイレクトに効くものがよかった。母の声が聞こえていなくても、バラの香りは入っていった。

 うつ病の発作は、物凄く体力を奪う。緘黙よりも緘動よりも体力を使った。うつの発作が去った私はもうクタクタで、食事をする元気もなかった。それが数分や数時間では留まらず、数日、時には数週間、数か月続くこともあって、それは言語化することもはばかられるくらいの苦しみだった。

 

 もちろん、苦しい時の最適な過ごし方は同じ病気でも人によって違うだろう。今回書いたのはあくまで私の場合だということを念頭に置いてもらいたい。でもこの経験が、少しでも今苦しんでいる誰かの役に立てばいいと思っている。

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休学

 後期が始まっても、私の大学生活は停滞していた。

 履修登録はしたものの、いざ授業がある日の朝になると動けない。今から電車に乗って、大学に向かう。大学に向かう。そのことが、言ってしまえばそのことだけが、涙が出るほど怖くてたまらなかった。

 それでも、無情に時間は過ぎていく。私一人だけ動けないまま、夏が終わって、秋が来た。

 そんな日々の中で、休学という決断をしたのは、必然的だったように思う。退学するべきか、本気で悩んだ。大学進学を本格的に決めた高校3年生の三者面談の日にうつ病を発症し、受験の準備や新生活への不安と共にうつが悪化する一方だった。私が今抱えている一番の苦しみはうつ病だ。そしてその原因は、間違いなく大学に潜んでいる。だから大学を辞めれば、私は楽になれるのかもしれない。

 それでも退学しなかったのは、周囲の反対があったのと、指定校推薦で入学されてもらった分際だったからだ。「辞めたい」「逃げたい」と嘆く私に「逃げていい」と言ってくれていた母だったけれど、退学に関しては賛成してもらえなかった。母だけじゃない。主治医の先生、病院のカウンセラーさん、誰に相談しても答えは同じだった。「こころさんは、きっと大学を辞めたら、所属先を失ったことに不安を感じると思います」という言葉に完全に納得したわけじゃないけれど、正常な判断ができないだろうと自分を信用せずに、周囲の人の言う通りにした。

 通学するのは、進むこと。退学するのは、退くこと。休学は、立ち止まることだった。

 私は復学できる自信なんて微塵も持たずに、休学の手続きを進めた。休学するためには、大学に行かないといけない。保健室に相談したり、必要な書類を提出したりするために必要な過程だった。そのたびに私は、母について来てもらい、でも門も前で必ず立ち止まって、大学に入る覚悟を決めていた。怖くて、足が動かないのだ。前期にがむしゃらに走り続けた代償が、今やって来ているようだった。私はきっと、無理をしすぎた。無理をするしかなかった。でも、その時に気付かないふりをした傷が、今になって痛み出したのだ。

 11月。私は休学届を出して、正式に休学中の学生になった。

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独りじゃなかった文化祭

 文化祭の朝は、父が車で高校まで送ってくれた。

 くじ引きの接客は男女でローテーションすることに決めて、女子は法被のようなものを来て先に接客することになった。お店の奥には、景品であるランチボックスやピーラー、おろし金や自転車までもが律儀に並んでいた。私の役目は、お客さんが引いたくじ引きの景品を渡すことだった。杖を使いながら、なるべく急いで景品を見つけ出さなくてはいけない。ほとんどが外れの景品であるお菓子だったので、昨日作った箱に入れられた大量のお菓子をお客さんに差し出していた。なるべく笑顔で、帰って行く時には、「ありがとうございました」という言葉を添えて。アルバイトなんてしたことなかったし、文化祭でも接客なんてできたことがなかった。できるとも思っていなかった。でも、想定外に訪れた人生初めての接客は、ぎこちなくともきちんと終わらせることができた。

 去年の文化祭は、廊下の人混みや賑やかさに怖気づいて、トイレにこもって泣いていた。あの日から一年。進んでいるのか戻っているのかよくわからない毎日だったけれど、ちゃんと前進していたのだということを実感した。

 私の体調を心配した母は、わざわざ高校まで遊びに来てくれた。ちょうど控室へと化した学習室で休憩していた私は、彼女からの連絡を受け取って廊下に出る。母は私の体調を確認して、ほっとしたように息を吐いた。

「受付に卒業生の親なんて項目はないって言われたよ。考えてみればそうだよね」

 そう笑っていた。私は彼女を見送って、また学習室に戻った。

 お昼すぎ、限界が来て、学習室で休んでいる途中にパニック発作がやって来た。最初は息がしづらかっただけなのに、だんだん過呼吸になって、手足が痺れて、意識が遠のく感覚に陥った。隣に座っていた元クラスメイトが、困ったように私のことをちらっと見て、学習室から出て行く。

 お店を回っていた響ちゃんたちが学習室に帰って来る。彼女らは私に気付いて、特に看護学部に進んだ元クラスメイトはずっと私の背中をさすりながら、正常な呼吸を取り戻すのを手伝ってくれた。「呼吸ができなくなるシステムも、授業で習ったんだー」と、場が重くならないように気を遣ってくれながら。

 その後保健室に移動して、1時間くらいベッドで休ませてもらった。斎藤先生に、「卒業したのに、保健室使っちゃってごめんなさい」と謝ると、彼女は首を振って、「全然だよ。むしろ、体調悪い中手伝ってくれてありがとう」と言ってくれた。

 みんなの元に戻って、「ごめんね」と謝ると、友人たちは「謝るな!迷惑とか、思わなくていいから」と叱ってくれた。

 文化祭の後、みんなとごはんを食べに行って、カラオケにも行った。カラオケでは歌わなきゃいけないんじゃないかと思って震えていたら、響ちゃんが隣で手を握ってくれた。でも結局、私は歌ってみることにした。卒業式の後のカラオケを思い出して、上手く歌えなかった記憶と再会する。あのまま終わらせたくない。治り続けようとする場面緘黙症をさらに乗り越えるリハビリだと思って、「私も歌ってみようかな」と口にできた。声が震えて、喉が狭くなって、全然上手く歌えなかったけれど、私はみんなの前でも、こうして自ら歌うことができるようになったのだと思うと感慨深かった。

 カラオケには菊池先生もいて、12人分の料金を支払ってくださった。

 文化祭が終わった。何を得たのかは、自分でもよくわからない。でも、少しだけかもしれないけれど、去年までに置き忘れたものを、確実に何か得た気がした。

 翌日は死んだように眠り続けて、その日から数日に一回しかお風呂に入れなくなった。ベッドかソファの上で悶え苦しむこと以外、何もできない。食事もろくに摂れなくて、トイレに行くのもやっと。体力がすごく落ちて、めまいも酷くて、家の中でさえ歩くことも難しい。

 やっと闇から抜け出せるまでに、1か月以上かかった。

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置き忘れたものを探しに

 大学1年生の秋。後期が始まったが、私は大学に行けなかった。

 あの地獄のような前期を越えて、夏休みを経てもなお、傷は癒えなかった。体調も整わず、大学のことを考えるだけで、怖くて涙が止まらない。

 さて、私は、どうすればいいのだろうか。

 そんな路頭に迷っている時に、高校時代の友人、響ちゃんから連絡があったのだ。

『高校の文化祭行くよね?』

 大学には行けなかったが、H学園なら行ける気がしていた。だから私は、「行くつもりだよ。まだ一緒に行ってくれる人決まってないけど笑」と返信した。

 すると響ちゃんから『同窓会で出店するみたいからグループ入れてもいい?』とメッセージが来た。どうやら、菊池先生が人を集めているらしい。

 同窓会は毎年校舎の外でテントを建て、一回100円でくじ引きをやっていた。卒業生らしい大学生たちが接客していたのを思い出す。

 そうか、今年から自分はそちら側なのか。

 妙に納得しながら、私はその誘いを快諾した。またみんなに会えるのだ。遊びに行くだけでなく、文化祭に主催側として参加できる権利をもらった気がして、心から楽しみだった。

 文化祭の前日、お昼から私は準備のためにH学園を訪れた。私の他にはクラスメイトだった男子たちしかいなくて、大学を終えた響ちゃんたちが来るまで私は保健室にいた。

「月島、することないかも」

 招集されたものの、学校に着いた途端菊池先生にそう言われたのだ。

 最初は養護教諭の斎藤先生や、時折気まぐれに保健室に入って来る先生方とお話ししていたけれど、途中から疲れてしまって、ベッドで休ませてもらっていた。

 なぜだろう。ベッドに一人でいると、急に不安に襲われ、呼吸が浅くなった。酸欠で手足が痺れて、関節痛も起きる。きっと小さいパニック発作だった。閉鎖空間が怖いのか、疲れが溜まったからなのか、よくわからない。パニック発作に原因を見つけ出そうとすること自体が間違っているのかもしれない。薬を飲んで、しばらく休むことで、症状は自然と落ち着いた。

 合流した響ちゃんたちと、くじ引きの箱を作る。こんな図工の工作みたいなことをやるなんて、ひさしぶりだな。去年の今頃はちょうどうつ病が一番酷かった時で、最後の文化祭はほとんど準備に参加することができなかった。でも、そうか。あれが最後だと思っていたけれど、確かに最後ではあったけれど、本当の意味では最後じゃなかったのかもしれない。だってほら、今年もこうして、私はH学園にいることができている。

 作業に没頭し、気付けば、20時を過ぎていた。職員室には、ほとんど先生方の姿が見当たらなくなっていた。

 帰り際に響ちゃんたちから夜ごはんに誘ってもらったけれど、体調を優先して帰らせてもらうことにした。本番は明日だ。今日頑張りすぎて倒れたら元も子もない。

 去年までに置き忘れたものたちを、今年こそ回収しようと必死だった。

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できたことしか残らない

 みんなと同じ空間の中で、私だけ一人別の時間を過ごしていた。

 それは、みんなと同じ教室にいても、グラウンドにいても、見えている世界が違うようだった。その世界には、私一人しかいなかった。

 声のない世界。自由に動けない世界。永遠に、何かに縛られ続ける世界。

 自分の右手に、そっと左手を乗せる。そして何かに耐えるように、何かを励ますように、ぎゅっと握っていた。

 私が不安に震えている時、「大丈夫だよ」と言って手を握ってくれる人はいなかった。だからいつからか、私は自分で自分の手を握るようになったのだ。

 私だけが、見える時間。見てきた時間。

 その時間が過去になると、泡みたいに消えてなくなってしまう気がした。まるで最初から、なかったかのように。

 その私の苦労や葛藤を、誰かに知って欲しかった。「できていた」「大丈夫だった」なんて、絶対に言われたくなかった。それは上辺だけの、助けを求められず、死ぬ気で取り繕った私だったから。だからそう言われると、「ああ、何もわかってもらえていない」と落ち込んだ。

 だからといって、苦しかったことを一方的にペラペラと話すのは、自己中だということも知っている。先生や友達を捕まえて、苦労話をするのは、私にはとてもできなかった。「厄介な奴だ」と、嫌われるのが怖かったのだ。

 それでも、知って欲しい。そんな願望が高まり、爆発して、苦しむことが増えた。私はきっと、今までの人生で、一人で生きてきた時間が長すぎた。

 

 だから私は、今日もここに来る。いつかの、消えてしまった時間を取り戻すために。

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救われた音の記憶 #15 『私が選んだもの』

 こんにちは。架空のラジオ番組、「救われた音の記憶」のお時間です。

このコーナーでは、毎回一つ、私が様々な病と闘う中で出会い、救われた楽曲などを紹介します。

 

 今回のゲストは、『ユイカ』の「私が選んだもの」。

 19歳の私から、お便りが届いています。

 

 ブログを書き始めて、約5か月。

 私はこのブログの存在を、高校時代の担任である菊池先生や、養護教諭だった斎藤先生に伝えました。

 斎藤先生から感想が送られてきたのは、つい先週のことです。

 私のブログをすべて読んだこと、そして、このラジオコーナーで紹介して欲しい曲があると送られてきました。

 斎藤先生とは音楽の趣味が似ていて、SEKAI NO OWARIやNiziUについて、高校時代からよく話していました。だから今日は、彼女に勧められたこの曲について書きたいと思います。

 

 『ユイカ』さんは、生まれつき、左目がほとんど見えないそうです。自分が社会的に少数派だと知った時、すごくショックで、「なんで私はこうなんだろう」と思ったことがあったそうです。

 私も、社会的に見れば少数派の人間です。「何で私だけ」と思ったことだって、数え切れないほどあります。

『もしも生まれる前に

 今世はこんな人生にするって決めていて

 顔も声も身長も恋人も

 仕事も家族も死に方も

 お空で私が決めているとしたら

 

 少しは他人のせいにせずに

 生きられる気がするから

 楽になる気がするから

 私は私に 何を学んでほしくて

 何を感じてほしいんだろう』

 何で私はこんな人生を生きているんだろう。悲観的にも、客観的にも、そう思うことがあります。でも、これは生まれる前の私が、すべて選んできたものなのかな。そう思い切れないほど、私はたくさんの人に迷惑をかけて生きてきたけれど、それもすべて選択の上だったら。私が選んだこの人生は、私に何をくれるのでしょうか。

『幸せに見えるあの子だって

 死にきれず泣いた夜もあって

 幸せに見える私も

 そんな夜があったよ。』

 私と貴方は違うけど、私と貴方は同じなのかもしれない。「誰にも言えないあの日」を、誰もがきっと抱えている。

『貴方が選んだもので生きている

 貴方が選んだ武器で戦っている

 貴方の譲れないもの、それは何だ?

 それが貴方の生きる意味だ。

 私は、うたを歌うこと。』

 私が選んだもの。

 私の譲れないもの、それは何だ?

 

 私は、言葉を紡ぐこと。

 

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ブログを始めた理由

 ブログを始めることになったきっかけは、深夜の母との会話だった。

 不安で眠れない夜。翌日は、妹の高校の体育祭だった。私には楽しめなかった行事を心待ちにする妹を見て、胸がざわざわと不穏な音を立てていた。「大丈夫。私とは、関係のないことだ」と言い聞かせても、夜眠る頃には不安が爆発した。

 眠っていた母をわざわざ起こして、リビングに降りた。話をした。

 話をして、わかったこと。それは、苦しい思い出に縋ってしまうのは、そんな私を忘れて欲しくないからということだ。場面緘黙症を患って10年。できることが全部できなくなって、陰で泣き続けてきた私の「気付いて欲しい」「見て欲しい」という本心だった。

 でも、苦しみながらも苦しいことばかり求めるのは不健全だとわかっていた。まるで、リストカットをする人と同じような心理だ。私の手首に何の傷もないのは、決してそういう世界と無縁だったからじゃない。少しだけ、ほんの少しだけ、世界線が違っただけなのだ。

 楽しくしていると、楽しそうにしていると、「ああ、平気なんだな」って思われちゃうから。死んでもそれだけは、思われたくないから。平気なんかじゃ、なかったから。

 だから自己肯定感を高めるために、「ブログを始めよう」と母が言った。「これで少しでも認められたら、自信に繋がるんじゃないかな」と。

 私は、「病気のことや自分のことなら、いくらでも書きたいことがあるわ!」と思い、いそいそとパソコンを開いた。今まで、声にできなかった言葉は、私の中に山ほど眠っていた。

 ブログを書くのは、楽しい作業だった。次から次へと書きたいテーマが浮かんできた。苦しい思い出を綴ることは、過去の自分を救うことと同等だった。完璧主義で、どんなことも長続きしない私が唯一続けられているのは、「言葉を紡ぐ」ことなのかもしれない。

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THIS IS FOR

 K-POPアイドルグループ、TWICEのライブに行ったのは、8月の下旬だった。2025年から始まったワールドツアーのタイトルは、「THIS IS FOR」という。

 弟の葵はONCE(TWICEのファンネーム)だ。私も、ONCEと公言こそできないものの、TWICEの曲はほとんど知っていたし、彼女たちのことは大好きだった。

 東京ドーム公演が当選すれば、葵は友達と行く予定だったが、生憎当選したのは名古屋ドーム公演だった。それでも、行けるだけ幸運だっただろうし、彼は心から喜んでいた。ただ葵が唯一納得してくれなかったのは、姉である私とライブに参戦することだった。中学生同士で名古屋まで行ってくれる友達はいなかったのだ。

 名古屋に行くのは始めてだった。中学生と病人を名古屋まで旅させることに不安を感じた母は、ライブに行かないのにも関わらずついて来てくれた。3人旅だった。

 私たちは事前に購入していたライブTシャツを着て、マフラータオルを巻いた。もちろんTWICEのメンバーは全員好きだったけれど、葵の推しはダヒョンちゃん、私の推しはミナちゃんだった。それぞれのメンバーカラーである、白とミントグリーンのTシャツに身を包む。私は気合を入れて、自分のためだったら絶対に買わないミントグリーンのネイルを買って爪に塗った。そんな私の横で、思春期の葵はいつまでも、「こころちゃんとお揃いかよ。恥ずかし」と嘆いていた。

 座席はスタンド席で、辛うじてメンバーの顔が見えるくらいだった。それでも隣の葵は初めて生で見るTWICEに興奮し、他の観客に交じって歓声を上げていた。歓声こそ上げなかったものの、私も女神のような彼女らに見惚れていた。

 ライブ中、私は体調と相談し、時折椅子に座りながらステージを見ていた。耳栓をしてもなお、音響はうるさい。けれど大きな音響や、めまいがするほどの人混みを差し引いても見応えのあるステージだった。

 ああ、9人のTWICEが見られてよかった。

 ライブの帰り道、あまりの疲労に、混雑する駅までの道で、私は蹲って動けなくなってしまった。長い間立っていたから、足が棒のようになって動かない。まるで2本の長い鉄が、腰から伸びているようだった。自分の意思じゃ、全く動かない。私は杖にもたれかかるようにして、時間が過ぎるのを待った。迎えに来てくれるはずの母に電話をするけれど、あまりの人混みに電話が繋がらない。葵は困ったように、隣でウロウロしていた。彼に申し訳ないと思いながらも、動くことができない。

 ようやく母に巡り合えたのは、それからしばらく経ってからだった。3人で電車に乗り、ホテルまで向かう。杖を持っていたからか、ふらふらだったからか、他の乗客から座席を譲ってもらった。他人の善意に甘えて、座席に座る。もう歩ける気がしなかった。

 駅からホテルまで、母に支えられながら何とか歩き、ベッドに寝転んだ。葵はまだ興奮した様子で、コンビニで買った夜ごはんを食べながらTWICEの魅力について語っている。

 私は残りわずかな体力を振り絞って、ごはんを食べてお風呂に入った。そしてそのまま、眠りに落ちた。

 名古屋で初めて迎える朝。2日目は新幹線に乗って帰るだけだった。家で待っている家族にお土産を買って、新幹線に乗り込む。

 無理かと思ったけれど、周囲の力を借りて、何とか遂行できた旅だった。

 翌日からまた数日間寝込むことになったけれど、大好きなTWICEに会えたあの日は、きっと一生忘れることはないだろう。

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