こころの声を綴って ー場面緘黙症と歩む日々ー

場面緘黙症を含めた不安障害とうつ病、SEKAI NO OWARIについてなどを書いていきます。

声を失くした教室

 場面緘黙症や社交不安障害を発症したきっかけ。あれは、小学3年生の頃だった。

 1年生の頃も、2年生の頃も、年配の女性が担任だった。怒るにしても、親が子供を叱るような――もはやおばあちゃんが孫を叱るような雰囲気だった。幼稚園生の時と大して変わらない。だからそこまで恐怖は覚えなかった。

 でも、3年生に進級して、新しい担任の先生になったのは、若い女性の方だった。いつも元気で、快活で、休み時間は子供たちと一緒にドッヂボールや鬼ごっこに進んで参加するような先生。

 小学3年生にもなれば、男子たちは特に、悪さをすることが増えていた。

 隣の席だった男子は、クラスの中でも群を抜いての問題児だった。授業中でも暴れて、「そんなに遊びたいなら校庭に出て行きなさい!」と怒られ、本当に校庭に行って遊んでしまうような子。

 毎日のように怒られる彼。クラスメイトたちは、「あいつのおかげで授業が潰れてラッキー」だと言っていた。でも、先生の視線がこちらを刺している。私じゃない。隣の彼だ。それなのに、彼に放つ言葉すべてを、自分ごとのように受け取ってしまった。

 先生はたまに我に返って、「隣の子にも迷惑だと思わないの? こころちゃんいつもごめんね」と言って、彼を廊下に連れ出す。

 「みんなは自習」と言われ、子供だけ放置された教室。問題児は廊下に出されて怒られているので、そううるさくもなかった。

 だから、聞こえてくる。私には向けられたことのないほど、尖った先生の声が。

 小学3年生で初めて私は、人の表裏を悟ってしまった。私の前では笑顔の先生が、見えないところではこんなに鬼のような態度を取るのだ。ドア一枚挟んでいても聞こえるくらい、彼女は感情に身を任せていた。

 怖かった。でも、怖さを共有できる相手もいなかった。

 私は、自分で自分を守ろうと必死で、無意識のうちに場面緘黙症という鎧を身に着け始めた。言動がなければ、怒られない。単純明快だが、そう思ったのかもしれない。

 本来、自分を守る目的だったはずの場面緘黙症と社交不安障害は、気付けば10年以上、私の中に居座ることになってしまった。

 あの教室で、廊下から響く怒声を聞きながら、私は徐々に自分の声を失くしていった。

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むき出しのこころ

「ちょっと後ろー、いいかな?」

 授業中に、壇上に立っていた先生が教室の隅に向けて唐突に言った。

「これ以上話すんなら、席離してもらうよ?」

 教室が一気に静まり返る。元々感情をあまり表に出さないタイプの先生が珍しく怒っていた。注意された当の本人たちは、「あーあ。怒られちゃった」とでもいうように苦笑いしているだけだった。

 私は、あの教室の中で、誰よりも傷付いていた自信がある。

 昔からそうなのだ。怒られている人、怒っている人と同じ空間にいるだけで、心が削られる。だから学校が苦手だった。

 すべてを他人事のように受け流すことができたら、どれだけいいか。先生の怒りの矛先が私じゃないことは重々わかっている。ちゃんと資料を見て、先生の話を聴いて、メモをしながら授業を真面目に受けているのだから。私に怒られる要素なんて一つもないはず。それなのに、人の感情が不安定な空間にいるだけで、私はとても不安になるのだ。

 まるで、こころが何の装備も施されず、むき出しになっているようだった。

 

 昔から一人だけ気付いていた。先生が怒る直前。片方の眉が引き上がる。額に小さく皺が刻まれる。イラっとしたその感情が嫌でも伝わって来る。それなのに、クラスメイトたちは何も気付かずに、おしゃべりをやめない。

 案の定先生は沸騰したように怒り出し、そうしてやっとクラスメイトたちは「あ、怒られた」と気付くのだった。その様子を見ているのが、ずっとしんどかった。

「お願い。気付いて。先生、怒ってるよ」

 クラスメイトたちに向けて、何度もそう願ったけれど、彼らは最後まで気付いてくれなかった。わかりやすく先生がブチ切れて、現状をようやく理解するのだ。

 

 今考えれば、場面緘黙症と社交不安障害を発症したきっかけも、きっとそれだった。

 むき出しのこころを守りたくて、無意識に鎧を作ったのだ。

 それらの病気が治って、よかったことの方が圧倒的に多い。

 けれど、今でもこうして私は、人の怒りに振り回されては、不安になり、泣きそうになり、恐怖を抱いてばかりだ。

 弱い自分が嫌になる。すぐに心が折れてしまう。

 けれど本当は、弱いのではなく、ただこころが薄かっただけなのかもしれない。

 怒りも、悲しみも、不機嫌も、まるで雨のように直接降りかかってくる。だから私は、長い時間をかけて鎧を作った。

 でも、もう知っている。鎧だけでは息が詰まってしまうことも。

 むき出しのこころのまま壊れずに生きる方法を、私はまだ探している。

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お弁当は、ちょっと特別

「今日もお弁当美味しかったよ」
 そう言って家に帰れることが、こんなにも幸せだと思う日が来るなんて、中学生の頃の私は知らなかった。

 

 大学2年生の私は、学校に行く際は毎回お弁当を持参している。

 特に理由があるわけじゃない。ただ、学食は混んでいるし、わざわざ買うのも面倒だし、節約にもなるかなと思って、母が作ってくれるお弁当を持って行く。高校生の妹と弟がいるので、結局作らないといけないのなら、2人分でも3人分でもそう労力は変わらないらしい。

 小学生の頃は給食だったけれど、私が通っていた中学校はお弁当だった。高校も同様だ。

 ただ、中学生の時は入学して数か月で不登校になった。毎日、「今日もお弁当美味しかったよ」と言って家に帰ることすらできなくなってしまった。

 高校生になっても、場面緘黙症を患っていた私は、不安のせいで空腹を感じないほどだった。さらには会食恐怖症まで発症し、せっかく作ってくれた母の愛を捨てざるを得なかったことばかりだ。

 母にバレないように、泣きながらゴミ袋の奥に痛んだお弁当の中身を捨てた。食べたいのに、美味しいのに、何より、母の愛情を無碍にしてしまっている気がして、何度お弁当を処分しても、最後まで慣れるものではなかった。

 

 大学に復学した今、私は、ごはんが食べられて、美味しいと思えて、人の目線も怖くない。

 そのすべてができなかった時期があるから、そんな当たり前のことに幸せを感じられる。

 お弁当を完食して、帰宅すると同時に、「今日もお弁当美味しかったよ」と母に伝えることができる。

 復学してから気が付いた。

 お弁当は私にとって、ずっと母との繋がりだったのだと。

 不登校時代や闘病期間が長かった私。

 だから私にとって、お弁当は、ちょっと特別な存在なのだ。

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救われた音の記憶 #21 『群青』

 こんにちは。架空のラジオ番組、「救われた音の記憶」のお時間です。

 このコーナーでは、毎回一つ、私が様々な病と闘う中で出会い、救われた楽曲などを紹介します。

 

 今回のゲストは、YOASOBIの『群青』。

 19歳の私から、お便りが届いています。

 

 私にはみんなの「普通」も、何かの「特別」もない。
 ずっとそう思って生きてきました。
 「普通」じゃないことはわかっていた。だからせめて、何かの「特別」がないと、自分には存在価値がないと思っていました。

『周りを見たって 誰と比べたって

 僕にしかできないことはなんだ

 今でも自信なんかない それでも』

『好きなものと向き合うことで

 触れたまだ小さな光

 大丈夫 行こう あとは楽しむだけだ』

 私は文章を書くのが好きで、その行為を愛しているはずなのに、ずっと両想いでいることはできません。そこに懸ける想いが強いほど、失ってしまった時への恐怖が増すのです。

 うつ病に出会ったばかりの頃、私は眠ることができなくなりました。一晩中、ベッドの中で、睡魔を待っていました。でも、目は冴えていく一方で、徐々に世界が明るくなっていくのです。

 ダメだ。今日も眠れなかった。

 そう、項垂れる。眠れなくても、朝は変わらずやって来る。頑張らなければいけない日常は、みんな平等。私は重い身体を引きずって、制服に袖を通すのでした。

 ブログを始めて数か月。栓が閉まったように、全く言葉が出てこなくなる時があります。どんなにあがいても、進まない現実。それはまるで、眠れないあの日々のようでした。

『好きなものと向き合うこと

 今だって怖いことだけど

 もう今はあの日の透明な僕じゃない』

 それでも今の私は、ちゃんとここに存在している。

 10年間、私はずっと泣いていました。「人間になりたい」と。「透明人間は、もう嫌だ」と。話せない私は、周りからしてみれば意思がないも同然で、一人だけ存在を忘れられることばかりで、「私はちゃんと周りから見えているのかな」と本気で思っていました。

 でも、今は、あの日の透明な私じゃない。
 誰にも見えないと思っていた私にも、確かに輪郭があった。
 私はここにいると、声を上げよう。
 だってここにいるのは、

『ありのままのかけがえの無い僕だ』から。

 

 私は10代のうちに、この曲に出会えてよかったです。

 

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手話

 大学で、手話の授業を履修した。

 先生は大学専属の職員ではなくて、手話通訳士の仕事も掛け持ちしているらしい。初回の授業で先生は、「私が手話を始めたきっかけは、息子が盲ろう者だったからです」と、手話交じりにお話ししてくださった。同じ履修者の中には、ろう者の学生もいるのだ。

 私が手話を始めたきっかけは、私が場面緘黙症だったからだ。

 病気や障害の種類は違えど、声でコミュニケーションを取ることができないのは、私とろう者の人々に共通していることだった。

 だからなのか、昔から手話に親近感を抱いていた。声がなくてもコミュニケーションを取れる方法があるんだ! これなら私でも、自分の気持ちを伝えられるだろうか。

 でも、YouTubeで手話の動画をいくつも見ても、最終的には「手話を上達させるためには、実践が一番!」と書かれていた。

 無理だと思って、諦めた。声がなくてもコミュニケーションが取れるとはいえ、手話は表情まで言語になる。場面緘黙症で表情すら動かない私には、手話というコミュニケーション手段すら絶たれていた。

 でも、今ならできる。授業のたびに毎回緊張して、まだぎこちなさは残っているけれど、それでも手話だけで、自己紹介をすることができた。

 日本語でも韓国語でも英語でも、手話でも文章でもコミュニケーションが取れる。日本語ですらコミュニケーションが取れなかった私にとって、これらはすべて武器だった。そして同時に、様々な人々を引き寄せる、磁石のようなものだった。

 

 今日から、毎週お昼休みに「手話カフェ」が開かれる。学内でポスターを見た瞬間、「行きたい」と思った。知らない場所に、一人で足を踏み出すなんて、今までの私じゃ考えられないことだった。

 でも、もし手話が少しでもできれば、それは直接コミュニケーションを取れる相手が格段に増えるということだろう。

 声なき人々の声を、聴くことができる。

 声がなかった私の声だって、きっと誰かに届くはず。

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緘黙パニック

 最近、パニック障害が悪化してわかったことがある。

 高校生の時、定期的に私を襲った、正体不明の「何か」。あれは、パニック発作だったのだと。

 ただ厄介なことに、あれは場面緘黙の症状下で起こったパニック発作だったのだ。

 

 私は、場面緘黙症の二次障害でパニック障害を発症した。数年間、私の中ではその二つの病気が共存していたのだ。

 パニック障害は、100人に1,2人が一生のうちに一度は羅患すると言われている。けれど「緘黙パニック」は、一体どれほどの人が経験したことがあるのだろうか。

 初めて緘黙パニックが起こった時、私は家族以外に話せる人なんて一人もいなくて、自分の中に迫りくる謎の恐怖や不安と一人で闘った。過呼吸のような状態になるのに、場面緘黙の症状と重なるせいで表には出ない。手は震えるし、頭も真っ白になるのに、誰にも気付いてもらえない。ただひたすら、自分を傷付けた。緘黙状態の私が唯一動かすことができた手首から先。両手を重ね合わせて、手の甲を爪で引っ掻いた。傷付けてしまおう。みみず腫れのような跡ができるたびに、祈るように思っていた。

「誰か、気付いて。誰か、助けて」

 あの日、結局誰も気付いてはくれなかった。仕方のないことだ。私だって、何が起きているのかわからなかったのだから。

 ただ、あの時に泣くことすらできなかった私が、今も心のどこかにいる気がするのだ。

 

 パニック発作は噴水のように、心と体に突然強烈な反応が起こる。私の場合は、過呼吸と窒息感、手足の震え、痺れ、気が遠くなる感覚が主だった。でも、場面緘黙症はその逆だ。強烈な反応が出て行くための出口が、粘土で埋められていたみたいだった。

 この苦しみが、表立って見えたら。何度そう願ったかわからない。

 だから場面緘黙症が治り、パニック障害が悪化していく中で、どこか安心してしまった自分もいた。

 自分の苦しんできたことに、説明がついた。そして今は、その苦しみを表に出せる。苦しいことを、周囲にちゃんと伝えられる。

 こんなことを言ったらダメかもしれないけれど、私はあの時より、今の方がよっぽど楽なのだ。もちろん、死ぬほど苦しい発作や、一生治らないんじゃないかという恐怖、できることが減って行く一方の不安はあるけれど。それに振り回され、日常生活に大きな支障をきたしてしまっているけれど、助けが求められる。それがどれだけ幸せなことなのか。

 緘黙パニックは、そんな死ぬほどの恐怖や不安と、自分の内側で、一人で闘うしかなかったのだ。

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挨拶の相手

 今年の4月から、大学に復帰した。

 休学中、ずっと恐れていた新学期。休学したその先に、復学できる未来があるとは、到底思えなかった。

 「無理だと思う」「上手くいくわけない」と弱音を吐きまくる私を、母はずっと鼓舞してくれた。大学と何度も相談を重ね、利用できるサービスを最大限活用し、不安の要素を聞き続けてくれた。

 そして私は、思い切って新生活をスタートさせた。

 気付けば、大学という場所に、去年ほどの恐怖は抱かなくなっていた。

 理由はただ一つ。話せるようになったからだ。

 授業やサークルで、友達ができた。最初こそ、すれ違えば会釈をする程度の仲だったが、課題に一緒に取り組んだり、サークルで活動したりするたびに、仲が深まって行った。

「おはよう!」

 友達の顔を見かけたら、そう笑顔で手を振れる。何だか夢みたいだ。

 そんな私が挨拶できるようになったのは、友達だけじゃない。

 大学の門にはいつも、警備員さんが立っている。彼らはロボットのようにぼーっと立ち尽くしていることが多いけれど、私は門を通る際、なるべく彼らに頭を下げるようにしている。

 守ってもらえる環境が、当たり前にあると思ったらいけない。

 私が会釈をすると、ほとんどの警備員さんは「いってらっしゃい」とか、「おはようございます」とか、そんな言葉を返してくださる。私はそんなことにいちいち嬉しくなって、学生の中で一人だけ、彼らに向かって「おはようございます」と返事をするのだった。

 去年は、うつ病がひどくて、真っ直ぐ歩くこともできなくて、警備員さんの存在など眼中になかった。死んでしまおうか、生きたまま帰るのか。本気でそこまで思い詰めていた。

 

 子供の頃から、「元気よく、大きな声で挨拶をしよう!」と大人たちに言われてきた。それができない私は、叱られてばかりだった。

「挨拶ができないのは、恥ずかしいことなんだよ」

 小学生の時、担任の先生がそう言っていたことを覚えている。

 わかっていた。挨拶すらできない自分を誰よりも恥じていたのは、紛れもなく私自身だったから。

 話せるようになったからといって、今の私から「元気よく、大きな声で挨拶をしよう!」とは、口が裂けても言わない。そんな言葉を聞いたら、子供の私は間違いなく傷付くから。

 誰からの理解も得られなかった彼女を傷付けることだけは、この先の人生、どんなことがあってもしない。そう決めている。

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引きこもり生活がくれたもの

 私は中学生の約3年間、引きこもり生活を送っていた。故意的なものではなかった。場面緘黙症で学校に行けなくなり、視線恐怖に怯える私が安心していられる場所は、もう家しか残っていなかったのだ。

 林間学校も、合唱コンクールも、文化発表会も、修学旅行も行けなかった。経験できたはずの青春をすべて諦めた。

 でも、決して失ったものばかりじゃなかった。

 引きこもり生活がくれたもの。

 それはダンスだ。

 

 当時外にも出られなくなった私は、動けないながら危機感を抱いていた。このままじゃいけない。でも、どうすればいいのかわからない。フリースクールに通うどころか、お散歩に行くことすらできない。

 家から一歩も動かず、勉強もせず、変わり映えのない日常で、一つだけ変わって行くのは体重だった。小学生の頃も、まだ中学校に通えていた頃も、体育や部活をしていたから、自分は運動不足とは無縁だと思っていた。でも今や、走り方さえ正確に思い出せない。

 家の中でもできる運動。自分なりに必死に考えて、見つけ出したのがダンスだった。とはいっても、ダンススクールに通えるはずもなく、ただ自分の部屋でこそこそと、動画を見ながらアイドルのダンスを真似した。

 最初こそ義務感で始めたダンスだったけれど、だんだん好きになっていった。自分はダンスが下手だし苦手だと、どこかで決めつけていた部分があったのだ。それは小学校の運動会で踊った義務的なダンスが苦手だったという記憶が根底にあるのかもしれない。

 私は踊り続けた。実は、舞台に立つのがずっと前からの夢だった。スポットライトを浴びて、たくさんの人の前で、堂々と何かを披露してみたかった。

 場面緘黙症の私は悲観的で、その気持ちに薄々気付いていながらも、「だって現実的に無理だよ」と諦めていた。目の前の事実を見れば、それが正しかったのだ。

 でも、私はずっと動きたかったんだ。本当の私は、こっちの方だった。場面緘黙症が制御していた自分はもういない。

 この自分の体を目いっぱい使って、何かを表現できることが、今は本当に楽しい。

 

 あの引きこもり生活は、私の味方ではなかった。外にすら一人で出られない自分を恥じ、憎み、自信を失う根源だった。

 時は流れ、私の中の引きこもりは自然と去って行った。

 ただ、あの引きこもり生活は一つだけ、ダンスというプレゼントを残してくれたのだ。

 

 私は大学2年生の春、復学と同時に、ダンスサークルに入った。

 第一印象が最悪だったダンスを、ここまで好きになれるとは思わなかった。

 

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洗面台戦争

 物心ついた時から、私は6人家族だった。

 きょうだい喧嘩や嫉妬は成長と共に減ってきたけれど、未だ解決しない問題に、毎朝の洗面台戦争がある。

 

 その戦争の始まりは、早朝だ。

 今のところ、一番手は私。最近は休みの日でも早朝覚醒してしまうので、誰も起きて来る前に急いで洗顔を済ませる。

 時間に急かされた不機嫌な妹と弟が起きた瞬間、その戦争は始まる。

 洗顔。歯磨き。ドライヤーにヘアアイロン。

 各々、日常を始める準備をするために、奪い合うように洗面台を使うきょうだい。朝なので、基本的にみんな不機嫌で、「まだ使い終わらないの?」「待ってるんだけど?」という無言の圧が背後からかかる。

 洗面台前に何人もが並んで歯磨きをする時もあるし、洗顔が終わって後ろを振り返ると、ライブ前のお手洗いように列ができていることもある。

 ただ鏡を見たいだけなのに、身長180センチの兄や弟が歯磨きをしていると、いくら背伸びをしても自分が映らない。そんな時に限って、彼らは私をからかうように、体を大きく揺らして鏡を占領するものだから、私はため息を吐いてその場から離れる。

 それぞれ自分のペースで家を出る支度をするけれど、洗面台だけは自分のペースでは使えない。それが大家族の弊害だ。

 社会人の父と兄。大学生の私。高校生の妹と弟。

 その全員の朝の支度時間が被ってしまった時、洗面台戦争はより複雑化する。

 メイクやヘアセットには抜かりなく時間をかける妹の蘭は、いわば我が家の洗面台の最高権力者だ。急いでいる朝の彼女を怒らせると色々面倒なので、私たちきょうだいは静かに気を遣っている。でもそんな中、父が起きてきて構わず頭を洗ったりするものだから、蘭の機嫌はますます悪くなる。

 我が家の洗面台は、毎日そうやって相当な過重労働に耐えている。

 2時間ほどの激しい戦争を終えて、それぞれ学校や職場に向かう。もう十何年も当たり前に起こっていることなので、それに対して憂鬱などは感じないけれど、外に出て一日を始めようとする時、我らは既に、戦争を終えた後なのだ。

 

 いつか、こんな日々が懐かしくなる日が来るのだろうか。

握力

 なんだか私、握力が強いらしい。

 高校生の時に体力測定で握力を測ると、試しに握っただけで「31」と表示されていた。

 周りのクラスメイトたちがどよめいて、「え! 壊れてる?! 壊れてないよね?!」と確認された。

 結局、壊れてなかった。私の握力が強いだけだった。

 中学生時代は不登校で、高校でも場面緘黙症のため体育をすべて見学していたので、自分の握力が強いも弱いも知る由もなかった。

 担任であり、同時に体育教師でもある菊池先生に笑われ、恥ずかしさに顔が赤くなる。普段から非力に見えているだろうに、私、力持ちみたい? やだ、恥ずかしい。

 昔から不安を抑えるために、ずっと自分の手を握っていた。大きな不安を握り潰すせいで、勝手に握力が鍛えられたみたいだ。だからきっと、私の手は、昔からずっと何かに耐えていた。

 緘黙状態で測っても驚かれたくらいだから、今本気で握力測定をしたら、もっと大きな数字が出ると思う。

 気になる気もするけれど、また笑われるかな。

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