こころの声を綴って ー場面緘黙症と歩む日々ー

場面緘黙症を含めた不安障害とうつ病、SEKAI NO OWARIについてなどを書いていきます。

あの日の桜エビ

 小学生の頃、お昼ごはんに、母が桜エビのチャーハンを作ってくれたことがあった。知り合いからいただいた桜エビは、今までの私の人生に登場したことがない生物だった。お皿に盛られたチャーハン。その中に、無数の桜エビがいる。まるで生きているかのように、こちらを睨んでいる。小学生の私は恐る恐る桜エビのチャーハンを食べ進めたけれど、最終的に泣き出してしまった。

 どうして泣いているのか、自分でもわからなかった。ただ、まだ半分以上残っているチャーハンを、これ以上食べられる気がしなかった。

 怖い。

 私は、既に死んでいる桜エビたちに、感情移入してしまったのだ。給食によく出て来る頭が切り落とされた冷凍エビも苦手だったけれど、何とか食べることができていた。それは、目がなかったからなんだろうなということをようやく知った。

 給食は残酷だ。ししゃもが出る時には、頭から尻尾まですべて食べないとお昼休みに入らせてもらえない。どうしても勇気が出ずに、ししゃもの頭だけを残して困っていた私に、当時のクラスメイトが「こころちゃん、ししゃもの頭食べないの?いらないならもらっちゃうけど」と言ってこっそり食べてくれたのを覚えている。あじの開きが出た時には、「目がコリコリしてて美味しいよ。こころちゃんも食べてみなよ」と言いながらあじの目玉をくり抜くクラスメイトを見て密かに引いた。その提案は、聞かなかったことにした。

 

 あれから私は甲殻類アレルギーを発症して、エビやカニは食べられなくなった。でも世界にはまだまだ生きている姿が想像できる食べ物がたくさんある。私はそのどれも、食べることができない。

 母はちりめんやほたるいかが大好きだ。彼女は私の性格をよく理解してくれているので、無理に勧められたことは一度もないけれど、トースターから萎れたほたるいかが出て来た時は流石に驚いた。

 スーパーに行く時も、鮮魚コーナーからは目を背けて歩く。パック詰めされた魚介類を見るだけで、まるで殺人現場に居合わせたような気分になってしまう。テレビや動画で流れて来る鮪の解体ショーも、生きたまま調理されるタコも、直視することができない。

 自分が都合のいいことを言っているのはよくわかっている。考えてみればお肉だって、元は誰かの命だ。それを飼育して、出荷して、捌いて、売って、調理してくれる人たちがいるから当たり前に食べられているだけで。

 これは、食物連鎖の王に降臨している人間だから言えるわがままだということもわかっている。ただ、私は今でも、あの日の桜エビが忘れられないのだ。

救われた音の記憶 #19 『ひとりで生きていたならば』

 こんにちは。架空のラジオ番組、「救われた音の記憶」のお時間です。

 このコーナーでは、毎回一つ、私が様々な病と闘う中で出会い、救われた楽曲などを紹介します。

 

 今回のゲストは、SUPER BEAVERの「ひとりで生きていたならば」。

 19歳の私から、お便りが届いています。

 

『自分自身を 諦めそうなときに

 思い浮かぶ 人と 想いと記憶と

 ともに 心の底から笑い合うんだ

 それだけ 譲らずに こだわっていくよ』

 自分自身を諦めそうだった時。私の脳裏をよぎったのは、家族や友人たちでした。私がもし、ここから消えたら、涙を奪ってしまうであろう人たち。その人たちに涙を流させないためだけに、私は踏ん張り続けました。

 そんな時、遠い記憶を呼び戻すのです。楽しくて、嬉しくて、幸せだった。その瞬間を思い出して、私にそんな感情を与えてくれた人たちを悲しませるものかと自分を奮い立たせました。そしてまたいつか、笑い合える日を夢見て。

『僕ひとりの話ならば こんな気持ちにならなかった

 僕ひとりの話ならば いくつ誤魔化しても良かった

 ひとりで生きていたならば ひとりで生きていないから

 予想を遥かに超えていく 嬉しさを知っているのさ』

『ひとりで生きていたならば こんな気持ちにならなかった

 ひとりで生きていたならば 理不尽も許せたかもな

 ひとりで生きていたならば ひとりで生きていないから

 愛しさ込み上げるほどの「大切」に出会えたんじゃないか

 こだわって生きると 今一度 言い切るよ

 原動力はずっと ひとりで生きていないこと』

 ひとりで生きていたならば、私はきっと、生きるのをとっくに諦めていました。

 人は弱くて、寂しい生き物です。

 でも、それでいいのかもしれないと、この曲を聴いて思いました。

 弱いから、私たちは他人との繋がりを求めます。人と人との関係を築いて、愛を伝え合って生きていくのだろうと、私はそう思います。

 弱いから、私たちは支え合える。

 ひとりで生きていないこと。

 それが何よりも、私を強くさせるのでしょう。

 

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お兄ちゃん禁止令

 私は物心ついた時から、兄のことは「お兄ちゃん」と呼んでいた。両親にそう躾けられたからだ。だから何の疑いも躊躇いもなく、「お兄ちゃん」のことは「お兄ちゃん」と呼んでいた。

 「兄貴」という新しい単語を我が家に持ってきたのは、妹の蘭だった。どこでその単語を覚えて来たのかはわからない。きっと最初はおふざけだった。でも、面白がって私たちは「兄貴」と呼ぶことが増えた。

 その辺りだろうか。ふと思い出したように、私が「お兄ちゃん」と呼ぶと、彼は「え」と驚いたような顔をした。そして言ったのだ。

「お兄ちゃんやめて」

「え、何で?」

「違和感だから」

「違和感って。今までずっとそう呼んできたじゃん」

「うん。でも、違和感だから」

 違和感だから。ただそれだけを理由に、「お兄ちゃん禁止令」が出された。

「私、きっと『兄貴』って呼んでるの知られたら、お友達にびっくりされると思う。『キャラじゃないね』って言われちゃうよ」

 そう言っても「兄貴」は、「お兄ちゃん」を許してくれなかった。なんか、ヤンキー家族みたいじゃないかな。でもそこまで言うなら……と私も諦めたけれど、なぜ彼がそこまで「兄貴」にこだわるのか、未だに理解できていない。どうやら、ありきたりな呼び方が気に入らないらしい。ふうん、そういうものなのか。優しい人なのに、変なところ頑固だな。

 私は幼い頃から妹にも弟にも「お姉ちゃん」ではなく、「こころちゃん」と呼ばれていたので、今でも「お姉ちゃん」に憧れがある。けれど、いくら彼らに「ねえ、お姉ちゃんって呼んでよ」と頼んでも、「お姉ちゃん」と一回言うだけで、もう次の日には「こころちゃん」に戻っている。その時も私が折れた。

 兄は来年度から社会人になり、この家を出て行く。でも、「お兄ちゃん禁止令」を取り下げてくれる気配はなさそうだ。

 仕方なく思う。

 「兄貴」、これからもよろしくね。

最古の記憶

 自分の中の最古の記憶を覚えていますか?

 

 私の中で、最古の記憶は一枚の写真のようになって脳の奥に保管されている。

 信じられない人がいるかもしれない。だから、信じてくれる人だけが信じてくれればいい。

 私の最古の記憶は、この世に生まれて数時間後のことだ。

 夏の朝に生まれた私は、ベッドの中にいた。そこから、出産後の母の姿が見える。彼女は疲れ果てていて、ベッドに横になったままアイスを食べていた。

 記憶にあるのは、その一瞬だ。

 私は成長するまで、てっきりその記憶は妹か弟が生まれた時のものだと思い込んでいた。でも、母に話すと、「アイスを食べてたのはこころが生まれた時だけだよ」と言われた。考えてみれば、妹が生まれたのは真冬で、弟が生まれたのも、まだ寒さの残る春の日だった。

 私もにわかには信じられなくて、成長してから母に事実確認をした。でもやっぱり、その時の写真があるわけでもないし、私の記憶と母の証言は一致した。

 母は同室の女性から、アイスを差し入れてもらったらしい。起き上がる体力も残っておらず、寝ながら食べていたようだった。生まれたばかりの私は、その母親の姿を見ていたのだ。

 おおよそ3歳以前の幼少期の出来事を大人になってから思い出せなくなる一般的な現象を、「幼児性健忘」というらしい。けれど稀に、それが起こらない人が存在する。最古の記憶を見れば、私はそこに分類されるだろうけれど、そんな昔のことを覚えているのは、生まれたあの日だけなのだ。次の古い記憶となると、2歳にまで飛ぶ。

 最古の記憶は本当に存在したものなのか。母から自分が生まれた時の話を聞いて、見たような気になっただけじゃないか。そう何度も思った。でも、明確に思い出せるのだ。母の恰好も、見ていた角度も、アイスの種類も。だから私は、自分を信じることにした。

 

 もしかすると、私はこの世に生を享けたあの日、決してこの日を忘れまいと、色のない世界を目の奥に焼き付けたのかもしれない。

 今年で20歳を迎える私は、きっと死ぬまで、あの日のことを忘れないのだろう。

獅子舞

 私はテレビでなまはげや獅子舞に怯え、泣いている子どもを見ると、同情を通り越して怒りすら覚える。
 それをエンタメとして、微笑ましく眺めている大人たちに対してだ。

 私は子どもの頃、年末年始を軽井沢にある祖父母の家で過ごしていた。お正月になると、必ず地域の子どもたちが獅子舞に扮して家までやって来た。

 彼らが来る前から、私はリビングのソファの影に隠れて震えていた。でも両親も祖父母も、獅子舞に会わないことを許してくれなかった。

 「縁起がいいんだよ」と言われる。幼い私は、「知るか」と思った。あの恐ろしい生き物に噛まれて縁起がよくなるくらいなら、不幸になった方がましだ。

 それでも、子どもの人権はないも同然だった。どれだけ本気で怖がっても、拒否しても、大人たちは笑うだけだ。

 幼稚園の頃、2月の節分になると、いつも遊んでいる公園に鬼がやって来た。
 中身の大人が誰だったのか、今になっても知らない。先生たちはただ、「豆を投げて鬼をやっつけてね」と言うだけで、助けてはくれない。

 般若のような顔をした大きな鬼が、私を抱き上げる。

 殺される!そう思った。
 怖くて悲鳴が出た。必死に豆を投げた。

 鬼の手から離れると、公園の奥に隠れようとひたすら走った。でも、公園の真ん中には先生たちが立っていて、奥へ行こうとする園児たちを捕まえ、必ず鬼のいる方へ戻した。心から「殺される」と怯え、命懸けで訴えているのに、大人たちは優美な笑みを崩さない。

 そうした記憶が引っかかり、私は今でも泣いている子どもが映るテレビを観ることができない。「こんなの、トラウマになるよ」と、怒ったような声が出てしまう。

 私は自分で言うのも何だが、穏やかなタイプの人間だと思う。
 でも、なまはげや獅子舞だけは、不快感を隠すことができない。

 子どもは、何も考えていない生き物なんかじゃない。確かに、成長するにつれて忘れていく人も多いのかもしれない。でも、時に幼い頃の怖い記憶をずっと忘れられない人もいる。

 信頼していたはずの大人たちが、自分を助けてくれなかった。
 それは間違いなく、私がこの世に絶望した最初の記憶だった。

スノードームの中の軽井沢

 一般的な家庭がどうなのかはわからないが、我が家の場合、新生児が生まれるとその他のきょうだいは父方の祖父母の家に預けられるのがルールだった。

 命の誕生を見届けて、父の運転する車に乗り祖父母の家がある軽井沢に行く。私たちを送り届けた父はそのまま、車を走らせて家へと戻る。

 祖父母の家は好きだった。車に4時間も乗る長旅も好きだったし、広い家もワクワクしたし、暮らしも習慣も違う土地は面白かった。

 2人暮らしの祖父母の家は広い。開放的なリビングと昔ながらの和室。2階も合わせて洋室が4つ。それだけ聞くとそこまで広いように感じないが、祖父母の家は庭が魅力的だった。

 庭は余裕でもう一軒家が建つくらいに広くて、奥の方には小さな小屋があった。何本もの木が生えていて、冬に行けばゴロゴロと栗が落ちていた。雪が降ればいつまででも遊べたし、年末に行くと祖父がイルミネーションの飾りつけをしてくれた時もあった。

 あの庭の楽しみは冬だけではない。夏休みに遊びに行った時は必ずハンモックを用意してくれて、自然の中で昼寝ができた。プールに置いてあるようなテーブルとイスを持ってきていとこ家族も交えてバーベキューをやるのも定番だった。

 もう一つ魅力的なポイントは、リビングにある暖炉。

 弟が生まれた時には、暖炉の上に鍋を置いてクリームシチューを作った記憶がある。中で炎が弾ける様子は、見ていて飽きなかった。煙突から煙が出ている様子も、絵本の中のようで嬉しかったのを覚えている。

 スーパーまでは車で何分もかかったり、近所の人から野菜を分けてもらったり、最寄り駅はほとんど人がいなかったり、正月になると獅子舞がやって来たりと、ここでは味わえない体験を山ほどした。スケートにもスキーにも連れて行ってもらった。もう祖父母は軽井沢から引っ越して近くに住んでいるが、あの家は、私の記憶から消えることはないだろう。軽井沢で過ごした時間は、スノードームに閉じ込められたみたいに色褪せないまま、私の中に残っている。

命の誕生

 母は第1子である兄を大きな病院で産んだ後、第2子以降の私たちを同じ助産院で産んだ。

 その助産院では、夫である父はもちろん、子供たちも出産に立ち会うのが当たり前だった。

 妹の蘭が生まれた時のことは幼すぎて覚えていないのだけれど、弟の葵が生まれた日のことは覚えている。早朝、私たちきょうだいは、父に叩き起こされた。「もうすぐ生まれるよ」と言われたような気がするけれど、眠気の方が圧倒的に勝って、幼い私たちは不機嫌だったと思う。

 父が2歳になったばかりの蘭を着替えさせている間、私と兄は母が用意した服に着替えた。その後急いで車に乗って、助産院に向かった。そこでは既に母が陣痛に耐えていた。

 第4子なので、葵は数十分で出て来た。先人である私たちが広げた産道を、大した時間もかけず抜けて来た。スピード安産だった。

 彼がこの世に誕生した瞬間は、一枚の画像のようになって今でも私の中に残っている。人の中から、人の頭が出て来たのだ。幼いながら、衝撃的だったのだろう。

 あれから成長して、私が小学4年生になった頃だろうか。理科の授業で、命の誕生について習ったことがあった。先生が教室にテレビを持ってきて、出産シーンを映す。その時、後ろの方からクラスメイトの声がした。

「やだ、気持ち悪い」

 え、と思って、でも振り向くことができなかった。テレビでは、生まれてきた赤ちゃんが映されているところだった。白いへその緒がお腹から伸びている。背後のクラスメイトは、そのへその緒を見て、「気持ち悪い」と言ったようだった。

 強がりでも何でもなく、私はその出産シーンに大した感情を持っていなかった。だって本物を、この目で見たことが2回もあるのだ。1回目は記憶がないとはいえ、新生児が産道を抜けて出て来るのも、生まれてきたばかりの体が真っ赤なのも、白いへその緒が巻き付いているのも、常識だと思っていた。だからクラスメイトの嫌悪感に、驚きを隠すことができなかった。

 この世に、命の誕生に立ち会ったことがある人はどれほどいるのだろうか。へその緒を見て「気持ち悪い」と口にしたクラスメイトは一人っ子だったから、あれは悪意のない素直な感想だったのだと思う。彼女のことを否定するつもりは毛頭ないけれど、私は少なくとも、幼いあの日に命の誕生に立ち会うことができて、本当によかったと思っている。

私の愛する家族たち

 私には幸せなことに、愛する家族が5人もいる。今回は、彼らの紹介をしたいと思う。

 

 父は子育てにはほとんど協力しなかったと母から何度も聞いた。確かに父は仕事に忙しい人で、お世話をしてもらった記憶はほとんどない。肝心な時はいつも酔っぱらっていて、我が家の最高権力者である母に常に叱られている。でも、父は日本の隅まで、私たちを連れ出してくれた。北海道、宮城、山梨、長野、京都、兵庫、大分。いつでも私の世界を広げてくれたのは父だった。

 母のことは――なんと言えばいいだろうか。この世の中で一番身近な人だから、言葉にするのはすごく難しい。でも、彼女はとても強い人だ。4人の子供を産み育てた。その中には私のような、病気を抱えた子もいるのに、文句の一つも言わず、日々の家事や育児を何十年も続けてくれた。私は彼女に感謝しかないし、きっとこれからもお世話になることばかりだと思う。私がこの先もっと大人になっても、例えば結婚しても、子供を産んでも、おばあさんになっても、何があっても、母が変わらず母でいてくれることが何より心強い。

 一人っ子に比べたら4人きょうだいは一人一人にかけられる時間が4分の1になる。それに寂しい思いをしたことはあった。きっときょうだいたちもそうだろう。リビングに一台しかないテレビだって、自分の好きな番組が見られるのは週に1回だけ。もらったお菓子も取り合いになる。けれど愛情は4倍に膨らんだ。私たちは両親の4倍に膨らんだ愛情を一身に受けて育った。

 

 兄の優は穏やかな人だ。私が知っている人の中で一番と言っていいほど。20年近く一緒に暮らしてきて、彼が本気で怒っている姿を見たことはほとんどない。真面目で、誠実なのに、どこか抜けている。私は兄といる時だけ「妹」でいられるけれど、時に彼は自分より年下のようにも見える。彼は我が家の太陽みたいな存在で、いるだけで家の雰囲気が明るくなるのだ。

 妹の蘭は一番歳が近いのもあり、彼女は私にとって友達のような存在だ。もっぱらインドアな私を、蘭はショッピングやカラオケ、映画に連れ出してくれた。彼女は本当に私の妹かと疑うほどに果敢な行動力を持っている。観劇もカラオケもお買い物も、カップルしかいない夜景のクルーズ船にだって、一人で行ってしまう。だから私よりも外の世界の情報をよく知っている。普通の女子高生がやるような、私には縁のなかった世界を、彼女が拓いてくれた。2人でディズニーリゾートに行き、プリクラを撮り、インスタの操作方法も流行りの曲も全部彼女が教えてくれた。そして唯一、真正面から喧嘩することができる相手だ。いい意味でも悪い意味でも、私たちの間には遠慮がない。

 弟の葵はいつまでも末っ子な男子だ。口は悪いし、素行は悪いし、頭もあまりよくないけれど、持ち前の明るさは本物だ。不器用な人だけど、根は優しい。いくつになっても、私にとってはかわいい弟だ。彼のことはこの世に生まれた瞬間から覚えている。抱っこをして、お風呂に入れて、手を繋いで家に帰った。泣いている彼を宥めて、悪さをした彼を叱って、大好きな彼を抱きしめた。私はどうやら、葵に対しては半分親のような感情を持っているらしい。

 

 外の世界と断絶していた時間が長かった私にとって、家族がたくさんいるのはこれ以上ない幸せだった。様々な人間関係を学んだ。外の世界の情報を受け取った。時にきょうだいに嫉妬し、時に一人っ子に憧れたこともあったけれど、今なら言える。私はここに生まれてくることができて本当によかったと。

救われた音の記憶 #18 『夜明けをくちずさめたら』

 こんにちは。架空のラジオ番組、「救われた音の記憶」のお時間です。

このコーナーでは、毎回一つ、私が様々な病と闘う中で出会い、救われた楽曲などを紹介します。

 

 今回のゲストは、上白石萌音の「夜明けをくちずさめたら」。

 19歳の私から、お便りが届いています。

 

 うつ病の症状で眠れない夜に、私はこの曲を再生します。

 眠れない夜は、いつもに増して孤独が押し寄せます。そんな夜に一人で聴くこの曲は、真っ暗な夜空に浮かぶ星のように、そっと私のそばにいてくれました。

『誰もがひとりぼっち やりきれないほど

 悲しみがあって でも笑いたくて

 悔しさにもたれて 見上げた夜空にくちずさむ』

『きみは月を見てる 涙に負けないように

 誰かの手に愛がやどること 願っているんだ そうだろ

 ぼくも月を見てる きみとおなじ月を

 寂しさこそぼくらのきずなさ

 夜明けはきっと来るから』

 私にとっての夜明けとは、太陽が昇る、その瞬間のことじゃなかったんです。

 例えば無理なく眠れる夜が来るとか、心から笑える瞬間が来るとか。

 そんな「夜明け」を信じて、夜空を見上げていました。

 夜明けは、きっと来るから。

 自分でも不思議なんです。字面だけでは「そんな簡単にいかないよ」と思ってしまう捻くれた私も、その言葉がメロディーと共に訪れたら、自然と頷くことができました。

『それはもうきれいごとだと 嗤うひとたちの言葉に敗れて

 分かち合うことをあきらめたりしない

 誰かを傷つけたくない

 

 どうかもう震えるその手を

 自分で責めたりしないで お願い

 みんな みんな 愛されたいと 言えずに生きている』

 不安から震える自分の手に向かって、私は責めるような言葉しかかけたことがありませんでした。

「何で止まらないの」「ちゃんとして」「変だ、こんなの」

 だからこの歌詞を聴いた時、そんな自分を見透かされたような気持ちになりました。

 震え出す自分の手を見た時、「なんで」と思いかけた私は、この歌詞を思い出して、上白石さんの絞り出すような「お願い」という声を思い出して、責める代わりに、そっと手を握ってみるのでした。

 

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休学中の生活

 大学を休学した。

「後期は治療に専念しよう」

 母にそう言われたけれど、後期に休んだその先に、復学できる未来があるとは到底思えなかった。だって私は、あんな場所、もう二度と行きたくないのに。

 休学中は、なるべく大学のことを考えずに過ごそうとしていた。焦ったところで、憂鬱になったところで、時間は変わらない。

 朝に目は覚めるけれど、午前中は動けないことが多かった。朝起きても動けず、また眠ってしまう。午後にも昼寝をして、夜になるとまた眠る。そんな代わり映えのない日々が、淡々と過ぎて行った。

 でも12月頃から、私に変化が見られ始めた。昨日より、少し調子がいい。そんな日が増えていった。

 私は文章を書き、お散歩に行き、韓国語を勉強し、運動もするようになった。もちろん、これは調子のいい時だけで、一日中寝込んでいる日も多かった。それでも、毎日難なくお風呂に入れるようになり、笑うことが増えた。

 これを書いているのは、2月の中旬。まだ上手くいくのかなんてわからないけれど、4月から始まる新生活を少しずつ直視できるようになってきた。前期は病気を隠して、普通の人に見えるように必死に努めていた。でも、それが自分の首を絞めていたことを理解したから、来年度からはありのままの自分で大学生活を送れたらいいと思っている。

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