
綺麗だ。
私は、大学の門を入ってすぐ、チャペルの前で足を止めた。
そこには煌びやかに光を放つ大きなもみの木が立っていた。
住宅のささやかなイルミネーションを除けば、今年初めて見るイルミネーションだった。私は思わず鞄からスマホを取り出して、写真を撮った。辺りは真っ暗で、門の方へ歩いて行く学生しかいない。今からキャンパス内に入っていくのは、私だけのようだった。
こんな真冬の夜にわざわざ休学中の大学を訪れたのは、ダンスサークルの見学をするためだった。
4月からの復学を目指して、居場所を増やすことを目標にした。授業だけでなく、もっと言えば大学だけでなく、どこか私が安心して居られる場所。高校を卒業して失ったそれに代わるものを探した。
調べると、F大学にはk-popのコピーダンスサークルがあることがわかった。思い切ってインスタで連絡してみると、未経験者でも休学中でも私を歓迎してくれた。そして今日が、約束の見学日だったのだ。
活動場所として教えられた体育館は、縦に長いキャンパスの中の一番奥にある。私は白い息を吐きながら、暗い道を進んだ。
体育館前に着いたのは、ちょうど約束通りの時間だった。でも、勇気が出ない。帰りたくなったらどうしよう。体調が悪くなったらどうしよう。コートをきゅっと握って、体育館前に立ち尽くしていた。
ここまで来たのだ。帰ったら絶対に後悔する。数分かけて、私は腹をくくった。
見ているだけでいい。嫌になったら、帰ればいい。
体育館の入り口、自動ドアが開く。言われた通りに右手のサブフロアを覗くと、10人程度の学生たちがダンスを踊っている最中だった。その中の一人と目が合う。彼女は私に気が付き、もう一人の学生を連れて入り口まで走って来てくれた。
「こころちゃん?」
インスタでは苗字しか名乗っていなかったのに、どうして下の名前を知っているのだろうと内心首を傾げながら、「はい」と返事する。後から考えてみれば、インスタの名前が下の名前だったのだ。
私を出迎えてくれたのは、部長さんとインスタでやり取りをした2年生だった。言われるがまま、スリッパに履き替え、フロア内の椅子に座る。そこで時折ダンスサークルの説明を聞きながら、活動を見学していた。
……怖そう、ではないな。
しばらく見ていてそう思った。4月から、自分がここで彼女たちと踊っている姿が、少しだけ、ほんの少しだけ想像できた。
予定より早く練習が終わり、お礼を言って帰る。
できた、できた。一歩進めた。帰り道、イヤホンでクリスマスソングを聴きながら、満足感に包まれていた。
帰りの電車は少し混んでいた。ヘルプマークはつけているけれど、杖を持っていないからか、席を譲ってくれる気配はなさそうだ。いつまでも、他人の善意があると思ったらいけない。そう思って、車内の中央、サラリーマンに囲まれながら何とかつり革を掴んで、終点に着くのを待った。
辺りをキョロキョロと見回して、わけもない不安が芽生え始めたのは、終点に着く直前だった。あ、これ……。嫌でも覚えのある息づらさにさらに不安が膨らむ。
終点の駅に着いてドアが開いた瞬間、逃げるように電車を降りた。とても歩ける状態ではなくて、ホームの壁に寄りかかりながら呼吸を整えようとする。でも、過呼吸が酷くなる一方だった。あ、これは、ダメだ。鞄から薬を取り出すこともできずに、手で口を覆う。周りの視線が怖くて、目を瞑る。イヤホンからは、まだ呑気にクリスマスソングが流れていた。次第に、全身が痺れて来る。わかっていた。ここまで来たらもう、自然と過ぎ去るまで終わらない。
「大丈夫ですか?」
周りの雑踏が遠のいていた時、頭の上からそんな声がした。私は何とか目を開けて、「……ああ、大丈夫、です」と言ったけれど、とても大丈夫そうには見えないだろうなと思っていた。
目の前に立っていたのは、母と同い年くらいの女性だった。
「体調悪い?」
「すみません。ちょっと……パニック発作で」
私の声にならないほどの訴えを聞いて、女性は納得がいったように頷いた。
「そっか、そっか。……駅員室で、休ませてもらおうか」
「……はい」
正直、駅員室に行くのは怖かった。でも、通りすがりのこの女性に、これ以上迷惑かけられない。
彼女に全体重を預けるようにして、ホームから駅員室までの数メートルをふらふらと歩いた。思っていたより足がおぼつかなくて、頭も上がらない。過呼吸も止まらない。知らない人の腕をこんなに借りるのは、初めてのことだった。
女性が駅員室の扉をノックし、中から駅員さんが出て来る。
「ちょっと、パニック発作が起きちゃったみたいで……。パニック障害なのかな?」
女性の問いかけに何度か頷く。
駅員さんに案内されるまま、駅員室の隅にあるベッドに横になった。女性は私の靴を脱がして、スマホや鞄をベッドに置いて、イヤホンを外してくれた。「ありがとうございます……」という弱々しい声が彼女に届いたかどうか、今でもわからない。私はとにかく、正常な呼吸を取り戻すので必死だった。
「救急隊は、呼ばなくて大丈夫ですか?」
そう言う駅員さんの声にまた何度も頷いた。
私がベッドに横になったのを見届けて、女性が駅員室から出て行く。駅員さんが「30分をめどに声かけさせてもらいますね」と言って扉を閉める。そうしてようやく、一人になれた。
寝かせてもらったのに申し訳ないけれど、私はパニック発作が起きている時、寝ているよりも体を起こしている方が楽だ。水筒を持っていたので、そこでようやく薬を飲んで、時間が過ぎるのを待った。母に連絡しようかとも思ったけれど、心配をかけるだけのような気がして、スマホを鞄にしまった。
20分ほど休むと、徐々に意識がはっきり戻って来る。駅員室の天井はボロボロで、壁紙が剥がれかかっていた。外から駅員さんたちの話し声が聞こえる。そうか、普段ロボットのように見えている駅員さんたちも、ちゃんと人間なんだなと思った。
靴を履いて、鞄を持って扉を開けると、駅員室全体の視線を浴びる。思わず、「すみません……」という声が漏れる。私は、この数十分間で何度謝っただろうか。
駅員さんに事情を簡潔に説明して、名前と年齢、電話番号を紙に書かされる。最後にもう一度お礼を言って、駅員室を後にした。
駅から家まで徒歩20分ほどある。普段はバスに乗ることが多いけれど、また発作が起きるのが怖くて、疲れていたけれど歩いて帰った。昼にお散歩することはあっても、夜に外に出ることが滅多にないから、夜空に輝く星々が新鮮に映った。家のリビングに明かりが灯っているのを確認した時、何だか泣きそうになった。
夜から始まった一日が、とても長く感じた。








