こころの声を綴って ー場面緘黙症と歩む日々ー

場面緘黙症を含めた不安障害とうつ病、SEKAI NO OWARIについてなどを書いていきます。

監視カメラ

 私は観察力が非常に高い。

 幼い頃から場面緘黙症を抱えていた。だからきっと、能動的に動く代わりに、受動を極めたのだろう。

 必然的なのか、偶然的なのか、私は監視カメラのように、視覚と聴覚の記憶力が優れた人間だった。

 誰かが言っていたこと、着ていた服、食べていたものなどを何年経っても覚えていたりする。

 もちろん勉強も例外ではなくて、高校生の時は試験前に教科書に載っている注釈の言葉まで一語一句覚えていた。そうじゃないと不安だった。

 そしてそれは、日常の些細なことに向けられている。

 

 妹の蘭は、宝塚歌劇団が大好きだ。彼女が機嫌のいい夜は、必ずテレビで宝塚歌劇団の公演が繰り返し流れている。

 何度も観たものなので、私はそのセリフや劇中歌の歌詞をいくつも暗記している。それが当たり前だと思っていた。でもふとした時にそうした長セリフや登場人物名を私が脳内データベースから持ってくると、驚かれることがある。「よく覚えてるね」と、そう言われる。

 そうした声を受けて、逆に私も驚いた。でもそう言われて、最近気付いたことがある。このブログでも以前書いた、私のコンプレックス。大した読書家でもないのに、なぜこんな文章を書くようになったのだろう。

 ずっと謎だったのだ。私は一体どこからそんな能力を身に着けたのか。

 ああ、監視カメラだったからなのだ。

 ずっと見えるもの、聞こえる音をすべて深く観察していたから、大して本を読まなくても、文章力や表現力が育った。そういうことだったんだ。

 そう思った時、少しだけ、自分の過去の時間を好きになれた。

 何もできなかった時間だと思っていたけれど、ちゃんと私は、世界を見て、受け取って、生きていたのだ。

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私の代わりに椿の花を

 深夜に、公園の森の中にいた。

「私もう、生きていくことできないよ」

 自分の情けない声が、曇った夜空に溶けて行った。

 

 始まりは、調子の悪い夜だった。不安で暴れる私を、母が「散歩に行こう」と言って外に連れ出したのだ。いつもなら、外の空気を吸いながら歩くことで少しは気持ちの整理がつくのに、この日はダメだった。

 もう死んじゃおう。

 それがうつの見せている幻だとわかっていながらも、私はそう思い立ち、母に「ちょっと一人で歩いてくる」とだけ告げた。彼女が帰って行った家を見て、「バイバイ」と呟く。

 車に轢かれるのが手っ取り早いと思った。だから通りに出た。でも、深夜の道路には全然車が通っていない。それにふと気付いたのだ。ただの鉄の塊に見える車も、当然だけど運転している人がいて、私にしか非がないとしても、撥ねたら運転手さんの罪になってしまうのか、と。それは、ちょっと、申し訳ないな。そう思って、でも、じゃあ、どこで死ねばいいのだろうと考えた結果、これといった成果が得られなかったので、仕方なく私はSNSを頼ることにした。

 スマホで「近くの死ねる場所」と調べたら、一番上に「いのちのダイヤル」という文字と、その電話番号が出てきた。それらしいワードを検索するたびに、毎回お目にかかるから、すっかり見慣れてしまった。私は当然のごとくそこをスクロールして、どうにか死に場所を探した。

 結果的に、公園で死ぬ人が多いことがわかった。あ、公園ね。家で死んだらきっと事故物件になっちゃうと思うから、ずっとそこが引っかかっていたんだ。でも、そうか。公園。公園なら、きっと私以外にも、死んだ人がたくさんいる。

 私が向かったのは、自宅近くの大きな公園だった。幼い頃から、その公園の隅から隅まで走り回って遊んでいたので、遊具も地形もすべて把握している。私は迷わず森の中に入った。大きな公園には、誰一人として人の姿はなかった。

 森の入り口に、椿の花が落ちていた。深く考えず、それを拾い上げる。まだ落ちたばかりなのか、傷一つついていなかった。子供の頃から母に、「咲いている花を取ってはダメ」と言われてきたので、私はいつでもこうして地面に落ちた花を集めていた。そしてそれを、幼稚園のお迎えに来た母にプレゼントしていた。その花が何であれ、彼女はいつも喜んでくれたのを覚えている。だからだろうか。椿の花を見て思ったのだ。私の代わりに、この花をママにプレゼントしよう。そうしたら、私を失った悲しみ以上に、喜んでくれるんじゃないかなと。

 椿の花を大事に抱えたまま、森の奥に進んだ。遭難防止のためなのか、年々派手に伐採される木々のせいで、私の居場所は森の外からでも見えていた。

 周りを見渡して、考える。今ここで眠っても、こんな気温じゃ凍死はできない。立派な木はあるけれど、生憎紐を持って来なかったので、首吊りもできない。

 どうしよう。

 森の中で途方に暮れて、私は泣きながら天を仰いだ。つい数日前、七回忌を迎えた祖父に向けて、同じような言葉を繰り返した。

「おじいちゃん、迎えに来てよ。私もう、生きていくことできないよ」

 だんだん泣き声に嗚咽が混じって、私は必死に命乞いをするように、死に乞いをした。

 

 それでも祖父は、私を迎えに来てくれなかった。

 

「こころ?こころー?」

 ふと我に返ると、母の声がした。スマホのライトで夜道を照らしながら、私の名前を呼んでいる。

「こころ。そんなとこいたの」

 私のスマホには、GPSがつけられている。いつどこで動けなくなるかわからないから、大学生の私の位置情報は常に母に共有されているのだ。

 あ、バレちゃった。

 自分が死ねなかったことに絶望しているのか、安堵しているのかさえ、わからなかった。

 仕方なく涙を拭いて、立ち上がる。かくれんぼは、私の負けだ。

 死のうとしていたとは、口が裂けても言えなかった。きっと母は怒って、悲しんで、「また入院してもらうよ」と脅すように言うだろう。今までの経験から、そうわかっていた。

 違うんだ。私はただ、心が壊れる前に、体を壊した方がいいかと思っただけなんだ。

 

 私が死に場所に選んだあの斜面。葉っぱや木の実が落ちた綺麗でも何でもないあの場所に、一つだけ、椿の花を置いてきた。このまま帰ってしまえば、あそこで死のうとしていた自分がいなくなってしまう気がして。それがどうしても可哀想で。

 だから、本来死ぬはずだったあそこに、椿の花を手向けた。

 今でもきっと、椿の花は、あの場所にいる。

 私の代わりに。

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PTSDと私

 復学した大学で、心理学の授業をいくつか履修した。去年は必修である言語学やキリスト教学を取るので精いっぱいで、ほとんど心理学を学べなかった。でも今期は、オンライン授業やオンデマンド授業も活用して、様々な心理学を履修した。

 障害者心理学、発達心理学、コミュニケーション心理学。その中でオンライン授業なのをいいことに履修した授業の一つに、「トラウマ心理学」というものがあった。

 こんな、いかにもフラッシュバックのトリガーになりそうな授業をわざわざ履修したのは、少しでもこのトラウマを乗り越えられるんじゃないかと思ったからだった。

 私はどうしても、一刻も早く、このトラウマを乗り越えたかったのだ。

 

 トラウマとは、心的外傷というらしい。

 私はずっと、自分がPTSDなのか、そうじゃないのか、悩んでいた。これに名前をつけて苦しみが形になれば、少しは楽になれる。一つの武器のように、「私、PTSDを持っているんです」と言って、沖縄から遠ざかる理由ができる。でも、私が受けたのは、災害でも虐待でも性被害でもなく、ただの修学旅行だ。それがPTSDになった人なんて、この世にいるのだろうか。苦しみに大小もないはずだけれど、第三者が見た時に、「ああ、それはトラウマになるよね」とわかってもらえるようなものではない。

「たかが修学旅行で?」

 自分でもそう思ってしまうものだから、きっと他者にもわかってもらえない。そう思っている。

 ただ、授業でトラウマの定義について学んだ。

 スライドには、「トラウマとは、圧倒的な恐怖や強いストレスを受けた時に生じるこころのけが」と記載されていた。

 私は、その言葉がトリガーとなり、あの日がフラッシュバックしてしまった。

 でも不思議なことに、涙と苦しみに塗れた中、どこかで安心している自分もいたのだ。

 今まで私が知っている「トラウマ」というのは、何か衝撃的な事件や出来事が起きた時に生じるものだと思っていた。でも、「圧倒的な恐怖や強いストレスを受けた時にも生じる」んだ。私の苦しみを、きちんと「こころのけが」として、認めてもらえたような気がした。

 思い切って母に訊くと、「病院ではもう既にPTSDだと言われている」と言われた。私が、体調が悪すぎて病院にすら行けなかった時、そう言われたらしい。

 病名がついていると知って、心から安堵した。変な話かもしれないけれど、私は社会的にこれを抱えて、これと向き合って、これを越えて生きていくことを認められた気がしたのだ。

 だからといって、こうなりたかったわけじゃない。履修した時に思っていた、「一刻も早くこのトラウマを乗り越えたい」という気持ちは変わっていない。

 

 悪者のいない世界でついてしまったこのこころのけがが、いつか癒されますように。

トラウマとフラッシュバック

 沖縄の思い出を消化するべく、トラウマにフォーカスしたカウンセリングを始めた。沖縄戦の恐怖や、修学旅行の苦しみを病院で涙ながらに語った。

 私は、本来客観視だけしていればいいものを、主観に置き換えてしまう癖があるらしい。洞察力、観察力の高さがそうさせているのだと、病院では言われた。

 

 定期的に、何らかのきっかけに触発されて、私はフラッシュバックを起こす。授業中に出た沖縄の話題も、駅前にあるソーキそば屋さんも、スーパーの沖縄フェアも、すべてがダメだった。だからテレビも見られない。

 フラッシュバックと聞いて、一体どんなものか想像できる人はどれほどいるだろうか。私の場合、見ていた景色や音や温度が、ビデオカメラのように蘇る。例えば、三線の音。エイサーショーで見た、和太鼓の音。真冬なのに暑い太陽。一瞬で私は、二年前のあの日に戻ってしまう。

 逃げられない。全身に嫌悪感から来る鳥肌が立つ。頭を抱える。自然と涙が溢れて来る。私、どこかが壊れちゃったみたいだ。

 フラッシュバックが起きた後は、しばらくずっと調子が悪い。そこからうつに繋がってしまう日もある。

 申し訳なくてしょうがない。本来楽しい思い出になるはずだった修学旅行を、こんなにも引きずってしまうなんて。一緒に過ごせた時間は本当に宝物だと思っているのに、こんな気持ちになってしまう自分が申し訳なくて、高校時代の人たちにはこのことを言えない。あなたたちと過ごしたからこうなったわけじゃない。誰も悪くない。ただ私は、ちょっと無理をしすぎただけなんだ。

 

 妹の蘭が高校2年生になった。

 蘭の高校でも、修学旅行先は沖縄だ。

 蘭が修学旅行に行っている間、私は毎日泣いていた。時計を見て、「今頃何してるんだろう」と思うたびに、自分が沖縄との接点を作ってしまう。蘭が帰って来る日は、まるで沖縄が我が家に突撃してくるようで、怖くてたまらなかった。

 もう何も見たくない。何も、見たくない。

 沖縄に関するもの。彼女が持って帰ってくるであろうもの。紅芋タルトとか、シーサーとか、思い出話とか。旅を楽しんで来た彼女に、土産話をするなと言うのは酷だ。だから蘭が帰って来る日は、私は早いうちに部屋にこもってしまおうと思っていた。

 それでも。

「どうしよう」

 平日の昼間。大学を休学中の私は、リビングに蹲って泣いていた。

「怖い。怖いよ」

 隣でパソコンを開き、仕事をしていた母が手を止めて言う。

「あの日々を、よく耐えた」

 母は泣き止まない私を抱きしめて言った。

「もう一生分の苦労をしたから、あとは幸せになるだけだよ」

うつ病患者の一日 回復期編

 以前、「うつ病患者の一日 急性期編」という記事を出した。

 あれから数か月が経過した。今日は、回復期の一日を紹介する。

 最初に断っておくが、回復期は長く、まだ明けていない。振り子のように調子のいい日と悪い日を、今でも行き来している。

 

 私の場合、昼夜逆転はすることなく、朝早くには目が覚めた。それでも午前中は動けない。寝ぼけ眼で朝ごはんを食べた後、また眠りにつくのだった。

 午後になってのそのそと行動を始める私は、自分が少しでも楽しいと思えることだけをした。うつ状態に陥らないこと。それだけを目指して毎日を過ごした。

 急性期、本や病院に対して思っていた。

「起き上がることもできないのに、着替えて散歩に行けなんて本気で言ってるの?」

 うつ病は太陽の光を浴びることや、適度な散歩が推奨されている。でも、当事者からしてみれば、急性期にそれをするなんて、絶対に不可能だった。

 ところが、回復期に入った私は、ほとんど毎日お散歩に行けるようになった。何も入って来なかったテレビや音楽を感じる心も、少しずつ取り戻してきた。余裕がある時は、興味のある勉強にも手を付けられるようになった。

 けれど夕方になると、日没現象と呼ばれるものが起きた。日没現象とは、文字通り日没の時間帯にうつの症状が悪化したり、気分が極端に落ち込んだりする現象のことだ。

 私は時計を見てもいないのに、毎日決まった時間に「あ、ダメかも」といううつの波に襲われた。世界のすべてが嫌になって、時には死にたくまでなってしまう。未来の不安に駆られて、じっとしていられない日だってまだ続いている。

 薬を飲んで、その時間を生き延びるだけで必死だった。そんな生活がいつになったら終わるのか。そんなことばかり考えている。

 回復期の中でも調子のいい日と悪い日はあって、私の場合雨の日や月曜日は急性期のような生活に戻ってしまうこともあった。そのたびに、「ああ、私は少しでも無理をすれば、またあの日々に戻っちゃうんだ」と恐怖を覚えるのだった。

 

 また、過眠も始まった。

 過眠期に入ってから、私は今でも一日のうち10時間以上を睡眠に使っている。

 それでも食事は安定した。食べられないこともなく、食べすぎることもない。それだけで体は随分と健康になった。

 回復期の道のりは、きっとまだまだ長い。でも、この記事が書けたこと。それが、うつ病を抱える自分と向き合えたことに繋がるのかもしれない。

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救われた音の記憶 #20 『最高到達点』

 こんにちは。架空のラジオ番組、「救われた音の記憶」のお時間です。

 このコーナーでは、毎回一つ、私が様々な病と闘う中で出会い、救われた楽曲などを紹介します。

 

 今回のゲストは、SEKAI NO OWARIの「最高到達点」。

 19歳の私から、お便りが届いています。

 

 この曲がリリースされたのは2023年の夏で、初めて聴いた時は衝撃でした。まるで空を飛んでいるような軽い曲調に含まれた、自身を鼓舞するような歌詞。

 うつ病が酷かった時は、この曲が少し眩しく感じて、しばらく無意識的に離れていました。この曲が初披露されたライブの時、私はうつ病の症状で痩せすぎてしまい、入院を検討している最中でした。

 私にもこんな日が訪れるのだろうか。それとも――終わる方が先かな。

 この曲を書いた時、Fukaseさんは私と同じように調子を崩していて、「行っちゃいけないところまで行きそうにもなった」と言っていました。こうなったらいいという願望だけで書いたのだと、その時のライブで語っていたのを覚えています。

 

 あれから約3年。今は、この曲の歌詞が妙に自分に重なるのです。

『夜明けの時さ』

 そうだ。夜明けがやって来た。

 また夜がやって来ることは、痛いほど知っています。それでも、今はこの光に包まれていたいのです。

『あの日々の痛みも過去だから 多分』

 「絶対」でも「必ず」でもなく、「多分」。けれどその曖昧な「多分」であることが、等身大の強さを表現しているような気がして私は好きなのです。

「自分を味方につけた 僕は誰より強くなるはずさ」

 Fukaseさんはこの曲を、こうなったらいいという願望だけで書いたと言っていた、と前述しました。そしてその後にこう言っていました。

「それがこうして現実になるなんて」

 

『さあ復活だ 目醒めの時が来た 今』

 過去の私はこの歌詞を、まだ眠くてだるい早朝に、叩き起こされるような気分で聴いていました。まだ不安でベッドの中にいたいけれど、それでも目を醒まさないといけない朝。でも今は少し違うんです。朝から降り注ぐ太陽の下、私は笑顔で空を見上げます。

 ずっと前から、この瞬間を待っていたかのように。

 夜明けだ。

 やっと、夜明けがやって来た。

 最後のサビでは、このフレーズが繰り返されます。

 

『さあ復活だ 目醒の時が来た 今』

 この曲は、未来の私からの手紙だったのかもしれません。

 

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母の再デビュー

 私の母は車の免許を持っている。だがしかし、彼女は運転が大の苦手だ。そのため、もうここ10年以上、彼女は一度もハンドルを握っていなかった。

 そんな母が、先日十数年ぶりに運転をした。きっかけは、私のパニック障害が悪化したことだった。大学に復学したものの、「電車が怖い」と嘆く私を見て、「送迎できれば」と思ってくれたらしい。

 どこまでも好みや意見が合致しない両親は、当然のごとく車の趣味も異なる。大きくて強そうな外車っぽい雰囲気を好む父と、小さくて小回りの利く、運転のしやすさを重視する母。でも結局、父の車愛と母の運転手離脱を理由に、数年前、より大きな車を買った。

 車が大きいから母が運転しなくなったのか、母が運転しないのをいいことに車が大きくなったのか、どちらが先なのかはわからない。ただ、ここ10年以上はずっと、我が家の運転手は父一人だった。母が運転するなんて、誰も想像すらしていなかったはずだ。

 その母が、運転した。正直ブレーキとアクセルを確認する姿は後ろから眺めていて不安だったが、思いの外危険は感じなかった。運転したと言っても、家から近くのコンビニまでくらいの距離なのだが、車庫から車を出し、道を走り、駐車場に停める。免許を持っていない私からしてみれば、それだけで特別な技術を持っているような気がした。

「でも大学まではまだ無理だな」

 母はそう笑っていたけれど、大きな不自由もないのに私のために、10年以上ぶりに運転に足を踏み出してくれたこと自体が嬉しかった。

 人の命を預かり、置き去りにできない鉄の塊を運転する勇気は、私にはないから。

 だからここで密かにお祝いをする。

 お母さん。運転再デビューおめでとう。

悪化するパニック障害

 場面緘黙症がよくなっていく一方で、パニック障害は悪化していった。こちらがよくなったと思えば、今度はこちらが悪くなる。一進一退だ。

 ダンスサークル見学の後にパニック発作を起こしてからというもの、私は電車に乗るのが怖くなった。

 

 病院に行くため、母と2人で電車に乗っている時、途中から息ができなくなり、パニック発作を起こした。そんなことが日常的になっていた。

 駅のホームに降りた私は、母に支えられる形で自動販売機の影まで移動した。

 過呼吸になったまま、頭を抱えた。まるで溺れているようで、息ができない。

「ああ」

 口から苦しみが漏れる。気が狂いそうだった。

 苦しい。

「何か食べよう。お薬飲もう」

「……無理、無理」

 母の提案にひたすら首を振る。今無理にでも何かを口にしたら、すべて吐き出してしまいそうだった。

 電車に乗るたび、私はそうして発作を起こしてしまう。

 それは、「移動する自由」を失っていく始まりだった。

 

 また別の日には、借りたい本があって、父と共に図書館を訪れた。

 広い図書館の中で、目当ての本を探し出す。父の力も借りて、無事目当ての本には巡り合うことができたが、せっかく来たので、他の本も借りていくことにした。

 うつ病。トラウマ。パニック障害。今私が悩んでいる症状の本をいくつか手に取った。重い本を抱えて、他にも何か小説でも借りようか……と悩んでいた時だった。

 天井まである高い本棚の前で、私は急に息苦しさに襲われた。考えれば考えるほど、図書館の閉鎖的な空間と、人がたくさんいるのに静まり返った環境が私の正気を奪っていく。そこに、何も怖いことなんてない。そんなことはわかり切っていた。今こうして、冷静になってみれば、何が怖かったのかなんて思い出せない。でもその時の私は、正常な呼吸をすることさえできない恐怖の中にいた。

 図書館の中を興味なさげに練り歩いていた父が、本棚の影で座り込んでいる私を発見する。「大丈夫?」という彼の声に、ちょうど持っていたパニック障害の本を取り出して、指差した。

「私、今、これ。私、今、パニック発作」

 出せない声に代わる訴えだった。それを理解したのかしていないのかわからないが、父は椅子のあるところまで私を連れて行き、しばらく休ませてくれた。彼の前でパニック発作を起こしたことはなかったから、きっとびっくりさせちゃったな。

 手足の痺れがようやく止まるまで、数十分かかった。

 車で来ていたのが不幸中の幸いだった。きっとバスで来ていたら、怖くて帰れなかったかもしれない。私は車内で倒れ込むように目を閉じた。

 図書館は大好きだったのに。車の中で項垂れるように思った。図書館に行けばいつだってワクワクして、ずっとここにいたいと思えるような数少ない場所だった。それなのに、何で。安心できるはずの場所さえ、怖い場所に変わっていく。

 行事や、特別緊張が高まる時にしかやって来なかったパニック発作が、日常的に訪れるようになった。飛行機でも美容室でも、発作を起こし、やがてその場所に行くこと自体が怖くなっていた。

 それはつまり、私の居場所が徐々に削られていくことを意味していたのだ。

 私の世界は、少しずつ狭くなっていった。

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ダンスサークルとパニック発作

 綺麗だ。

 私は、大学の門を入ってすぐ、チャペルの前で足を止めた。

 そこには煌びやかに光を放つ大きなもみの木が立っていた。

 住宅のささやかなイルミネーションを除けば、今年初めて見るイルミネーションだった。私は思わず鞄からスマホを取り出して、写真を撮った。辺りは真っ暗で、門の方へ歩いて行く学生しかいない。今からキャンパス内に入っていくのは、私だけのようだった。

 こんな真冬の夜にわざわざ休学中の大学を訪れたのは、ダンスサークルの見学をするためだった。

 4月からの復学を目指して、居場所を増やすことを目標にした。授業だけでなく、もっと言えば大学だけでなく、どこか私が安心して居られる場所。高校を卒業して失ったそれに代わるものを探した。

 調べると、F大学にはk-popのコピーダンスサークルがあることがわかった。思い切ってインスタで連絡してみると、未経験者でも休学中でも私を歓迎してくれた。そして今日が、約束の見学日だったのだ。

 活動場所として教えられた体育館は、縦に長いキャンパスの中の一番奥にある。私は白い息を吐きながら、暗い道を進んだ。

 体育館前に着いたのは、ちょうど約束通りの時間だった。でも、勇気が出ない。帰りたくなったらどうしよう。体調が悪くなったらどうしよう。コートをきゅっと握って、体育館前に立ち尽くしていた。

 ここまで来たのだ。帰ったら絶対に後悔する。数分かけて、私は腹をくくった。

 見ているだけでいい。嫌になったら、帰ればいい。

 体育館の入り口、自動ドアが開く。言われた通りに右手のサブフロアを覗くと、10人程度の学生たちがダンスを踊っている最中だった。その中の一人と目が合う。彼女は私に気が付き、もう一人の学生を連れて入り口まで走って来てくれた。

「こころちゃん?」

 インスタでは苗字しか名乗っていなかったのに、どうして下の名前を知っているのだろうと内心首を傾げながら、「はい」と返事する。後から考えてみれば、インスタの名前が下の名前だったのだ。

 私を出迎えてくれたのは、部長さんとインスタでやり取りをした2年生だった。言われるがまま、スリッパに履き替え、フロア内の椅子に座る。そこで時折ダンスサークルの説明を聞きながら、活動を見学していた。

 ……怖そう、ではないな。

 しばらく見ていてそう思った。4月から、自分がここで彼女たちと踊っている姿が、少しだけ、ほんの少しだけ想像できた。

 予定より早く練習が終わり、お礼を言って帰る。

 できた、できた。一歩進めた。帰り道、イヤホンでクリスマスソングを聴きながら、満足感に包まれていた。

 帰りの電車は少し混んでいた。ヘルプマークはつけているけれど、杖を持っていないからか、席を譲ってくれる気配はなさそうだ。いつまでも、他人の善意があると思ったらいけない。そう思って、車内の中央、サラリーマンに囲まれながら何とかつり革を掴んで、終点に着くのを待った。

 辺りをキョロキョロと見回して、わけもない不安が芽生え始めたのは、終点に着く直前だった。あ、これ……。嫌でも覚えのある息づらさにさらに不安が膨らむ。

 終点の駅に着いてドアが開いた瞬間、逃げるように電車を降りた。とても歩ける状態ではなくて、ホームの壁に寄りかかりながら呼吸を整えようとする。でも、過呼吸が酷くなる一方だった。あ、これは、ダメだ。鞄から薬を取り出すこともできずに、手で口を覆う。周りの視線が怖くて、目を瞑る。イヤホンからは、まだ呑気にクリスマスソングが流れていた。次第に、全身が痺れて来る。わかっていた。ここまで来たらもう、自然と過ぎ去るまで終わらない。

「大丈夫ですか?」

 周りの雑踏が遠のいていた時、頭の上からそんな声がした。私は何とか目を開けて、「……ああ、大丈夫、です」と言ったけれど、とても大丈夫そうには見えないだろうなと思っていた。

 目の前に立っていたのは、母と同い年くらいの女性だった。

「体調悪い?」

「すみません。ちょっと……パニック発作で」

 私の声にならないほどの訴えを聞いて、女性は納得がいったように頷いた。

「そっか、そっか。……駅員室で、休ませてもらおうか」

「……はい」

 正直、駅員室に行くのは怖かった。でも、通りすがりのこの女性に、これ以上迷惑かけられない。

 彼女に全体重を預けるようにして、ホームから駅員室までの数メートルをふらふらと歩いた。思っていたより足がおぼつかなくて、頭も上がらない。過呼吸も止まらない。知らない人の腕をこんなに借りるのは、初めてのことだった。

 女性が駅員室の扉をノックし、中から駅員さんが出て来る。

「ちょっと、パニック発作が起きちゃったみたいで……。パニック障害なのかな?」

 女性の問いかけに何度か頷く。

 駅員さんに案内されるまま、駅員室の隅にあるベッドに横になった。女性は私の靴を脱がして、スマホや鞄をベッドに置いて、イヤホンを外してくれた。「ありがとうございます……」という弱々しい声が彼女に届いたかどうか、今でもわからない。私はとにかく、正常な呼吸を取り戻すので必死だった。

「救急隊は、呼ばなくて大丈夫ですか?」

 そう言う駅員さんの声にまた何度も頷いた。

 私がベッドに横になったのを見届けて、女性が駅員室から出て行く。駅員さんが「30分をめどに声かけさせてもらいますね」と言って扉を閉める。そうしてようやく、一人になれた。

 寝かせてもらったのに申し訳ないけれど、私はパニック発作が起きている時、寝ているよりも体を起こしている方が楽だ。水筒を持っていたので、そこでようやく薬を飲んで、時間が過ぎるのを待った。母に連絡しようかとも思ったけれど、心配をかけるだけのような気がして、スマホを鞄にしまった。

 20分ほど休むと、徐々に意識がはっきり戻って来る。駅員室の天井はボロボロで、壁紙が剥がれかかっていた。外から駅員さんたちの話し声が聞こえる。そうか、普段ロボットのように見えている駅員さんたちも、ちゃんと人間なんだなと思った。

 靴を履いて、鞄を持って扉を開けると、駅員室全体の視線を浴びる。思わず、「すみません……」という声が漏れる。私は、この数十分間で何度謝っただろうか。

 駅員さんに事情を簡潔に説明して、名前と年齢、電話番号を紙に書かされる。最後にもう一度お礼を言って、駅員室を後にした。

 駅から家まで徒歩20分ほどある。普段はバスに乗ることが多いけれど、また発作が起きるのが怖くて、疲れていたけれど歩いて帰った。昼にお散歩することはあっても、夜に外に出ることが滅多にないから、夜空に輝く星々が新鮮に映った。家のリビングに明かりが灯っているのを確認した時、何だか泣きそうになった。

 夜から始まった一日が、とても長く感じた。

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私の口になってくれた家族へ

 家族には何年もずっと、私の「口」になってもらっていた。

 飲食店で注文をする時も、服屋で店員さんに話しかけられる時も、学校とのやり取りも、宅急便や電話の対応も。10年以上そうだったから、もはや私が口を開く、他人とやり取りをするなんて選択肢は、私はもちろん、家族の中にもあってないようなものだった。

「こころは話せないから」

 誰かがストレートにそう言ったことはないけれど、それはいつからか私たち家族の中に自然と共有されていた常識だった。

 だが、そんな私が場面緘黙症を克服し始めた。

 つまり、家族以外との他人とも、話せるようになったということだ。

 家を訪ねて来た宅急便にも対応できた。受け取った荷物を抱えて嬉々として家に戻ると、常に口が悪い弟でさえも、「え、マジで?成長じゃん」と褒めてくれた。

 

 そんな私は今、必死に言語を勉強している。

 元々、日本語は好きだった。書くことも読むことも。漢字検定も何度も受けていたが、うつ病になって漢字からは離れてしまった。でも、もう少し余裕が生まれれば、また挑戦したいと思っている。

 あとは英語と韓国語。英語は小学生の頃から授業があったが、それは小学生向きの、音楽に合わせて英語で歌ったり、踊ったりするものだった。フレンドリーな外国人の先生も苦手で、場面緘黙症の私にとって英語の時間は苦痛以外の何ものでもなく、英語の授業がある日はほとんどすべて欠席していた。

 中学生になっても、やはり言語を学ぶためにはコミュニケーションが伴う。頑張って話しても小さな声しか出せない私は、英語を学ぶことより声を出す不安の方にばかり気持ちが傾いて、いつしか英語自体が嫌いになっていた。

 韓国語に出会ったのは、高校の希望者が受けられるオンライン授業だった。授業表を見た母が、「韓国語とか受けてみたら?好きだと思うよ」と言った。正直、私は納得しなかった。

「英語も苦手なんだよ。韓国語なんてあんな、暗号みたいな言語、私にできるの?」

 そう思ったけれど、結局他にすることもなかったので、軽い気持ちで受けてみた。

 他言語を、初めて面白いと思えた。日本語と文法がほぼ一緒だったからなのか、オンラインで声も顔も出さなくていい授業だったからなのか、理由はよくわからない。でもとにかく、韓国語を学ぶのは楽しかった。テストも何もないけれど、私は独学で韓国語の勉強を進めた。

 英語に心を寄せられたのは、最近のことだ。ふと、自分の英語能力の低さに危機を感じて――以前なら「それでもいいや」と思っていただろうけれど、気が付いたのだ。「私、苦手だったのは英語じゃなくて、しゃべることだったんだ」と。

 他言語を話せるようになることは、その分たくさんの人と直接コミュニケーションが取れるということ。場面緘黙症を克服した今の私に、それを怖がる必要は全くなかった。

 同じ言語を使う人たちとすら、話せなかった。その経験があるから、コミュニケーションを取れる幸せを人一倍わかっている。

 

 そしていつか、家族で韓国旅行に行きたい。韓国語がわからない家族の代わりに、私が通訳したい。

 今度は私が、彼らの「口」になりたい。

 それが、今の夢なのだ。

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