始まりは、私が小学校3年生の時だった。
3年生の教室。季節も、時間も、天気も、全く覚えていない。明確に記憶にあるのは、迫りくる恐怖と、『あの』感覚。
確か、私はノートを広げていた。周りのクラスメイトも一緒に。
5列に並んだ机の、多分前から3番目。一番廊下側の席だった。
「じゃあ、一番端から発表してってね」
担任の先生が、私の列の一番前に座っている子を指す。その子はすっと立ち上がって、事務的にノートの中身を読み上げる。
授業の内容は、『買い物発表』だった。食材でも文房具でも、事前に何かしらの買い物が宿題になっていて、この時間にクラスの前で買ったものと買った場所を発表する。社会科の授業の一環だった。
宿題を忘れたわけじゃない。目の前に開かれた方眼ノートには、自分の文字でいくつかの商品とそれらを購入した有名なチェーン店の名前が書かれている。
それなのに、自分でも理解できないほど緊張していた。心臓があまりにも大きく鳴るせいで、肩までもが震え出す。
一番前の子の発表が終わり、まばらな拍手が起きて、すぐに消える。そのまま、私の前の席の子が立ち上がった。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。
何度もそう思うけれど、何かの異常を知らせるかのように、緊張が止まらない。頭の中で喋らないといけない言葉がぐるぐる回って、意識が静かに離れていく。
前で立っていた子が、椅子に座った。その子がこちらを振り返ってやっと、自分の順番が回って来たことを理解した。
思い出したかのように、慌てて椅子から立ち上がる。クラスメイトたちの視線が、誰一人残らず自分に注がれているのがわかった。意図せずに顔が赤くなっていくのに気が付いて、両手で握りしめたノートの中を必要以上に覗き込む。
変じゃないかな。
不意に意識してしまったその感情とは、この時に初めて出会った。
私、クラスの前で数秒間発表するだけなのに、こんなに緊張してる。みんなから見られるだけで、お風呂に入った時みたいに顔が真っ赤になってる。これ、変じゃないかな?
緊張しているのは隠せても、勝手に赤くなった顔は自分が意識すればするほどより熱くなっていく気がした。
この場にいる全員が、私の声を待っている。私が喋るのを、待っている。
自分自身を急かす言葉で脳が埋め尽くされると、やがてヒューズが飛んだみたいに何も考えられなくなった。
ノートに書かれた自分の文字を見て、次々に怪訝そうな顔をし始めるクラスメイトたちを見て、いよいよ混乱する。
私、何を言えば……。
読み上げるべき場所は、わかっていた。もう既に2人の発表も終わっている。同じように言えばいいだけなのに。
声が出ない。
何度も何度も、胸のあたりまで声が上って来るのに、喉から先に出てこない。話したいことが喉に引っ掛かって、ぐちゃぐちゃに絡まって、上手く力が入らなかった。
何、何で。
何、これ。
混乱していたけれど、だからといって動くこともできなかった。授業中のクラスで、私一人が立ったまま、しばらく時間が流れる。やがて、クラスメイトがそれぞれ、友達に意味深な視線を送る。
黙ったままの私と、騒々とし始めたクラスを見兼ねて、担任の先生が私の元へ歩いてくる。ノートの中身を覗き込んで、満足したように頷いた。
「書いてあるじゃん。ほら、これを言えばいいんだよ」
先生の言葉に、小さく頷く。「了解」という意味ではなかった。
わかっている。
わかっているけれど、だって声が出ない。セリフは完成しているのに、何度挑戦しても声が出てこなかった。
記憶にあるのは、そこまでだ。