こころの声を綴って ー場面緘黙症と歩む日々ー

場面緘黙症を含めた不安障害とうつ病、SEKAI NO OWARIについてなどを書いていきます。

場面緘黙症の私が嫌だったこと

 場面緘黙症になって、嫌だと感じていたことがいくつかある。これはあくまで私の場合だが、今日はそれを書いていきたいと思う。

 

 まず、声を強要されること。学校は、話すことを、周りとの協調を、強要される場に他ならなかった。時には震えながら発表をして、また時には泣きながら音読をした。先生から「もっと大きな声で」と注意されるたび、自分が否定されたような気がして、悲しみで胸が張り裂ける思いだった。

 2つ目は電話。苦しみや恐怖のあまり学校を休む日があると、必ずと言っていいほど担任の先生から電話がかかってきた。「今日はどうした?」と訊かれても、上手く答えられない。自分でも、自分の中で何が起きているのか、わかっていなかったからだ。先生方が、善意でそうして下さっていたのはよく理解している。でも、当時の私にとって電話は、頷きもジェスチャーも許されない、声に縛られた恐怖の機械でしかなかった。小学生から中学生にかけて、そんな電話をいくつ受け取っただろう。あの時の恐怖心から、今でも電話が鳴ると必要以上に驚き、緊張してしまう。

 3つ目は日直。担任の先生によっては、一人で日直をこなさなければいけないこともあった。一人で教室の前に立って、喋る。それはたとえ台本通りだったとしても、ただ話すことがあまりにも恐怖で、嫌だった。自分が日直の日を欠席しても、次に登校した日に延期されるだけだった。当時の私にとって日直は、どうやっても逃げ場のない地獄のシステムだった。

 4つ目は、「何で話さないの?」と訊かれることだった。責められるように訊かれることもあれば、興味津々といった様子で尋ねられたこともあった。それでも、答えることはできない。「話さない」んじゃない。「話せない」のに。唇の内側で、何度もそう呟いた。「何で話さないの?」それは四六時中、私が私に尋問していた言葉だった。誰よりもそれを知りたかったのは、私自身だったのだ。

 すべてにおいて言えることは、場面緘黙症の認知度の低さがそうさせていた、ということだろう。実際、当時の私も自分のことを場面緘黙症だと認識できていなかったし、そんな病気があることすら知らなかった。でも、だからこそ、「病気」だと区別できずに、「周りの子たちと何一つ違わない、ただ変な子」だと思い込んでいたことが苦しかった。だから容赦なく自分を攻撃した。罵詈雑言を浴びせた。そうすることで、気合や根性で治るものだと思っていたからだ。

 今になって、それが全く正しくないことだというのはよくわかる。でも当時の私は、自分を傷付け、誰よりも自分を敵に回さないと、あの日々を生き抜くことができなかった。自分が一番の敵だったら、周りの怖い大人たちも、馴染めないクラスの輪も、これ以上恐れる必要がなくなると思ったのだ。

 嫌なことをやらなければならないのは、時に死を連想させるほどに苦痛なものだった。冗談でも誇張でもなく、嫌なことに埋め尽くされた世界で追い詰められた私は、絶望の淵に立っていた。そこからは、すごく近くに死が見えた。

 だからもし、場面緘黙症でも、そうじゃなくても、追い詰められている子がいるのなら、どうかその苦しみを過小評価せずに、支援に繋げて欲しい。私は、その絶望の淵でずっと、手が差し伸べられるのを待っていたから。