初めて通った病院で、今までの苦しみに名前がついた時のことは、今でもよく覚えている。
場面緘黙症と、対人恐怖症(社交不安障害)。
初めてはっきりとした病名を知った時の心情は、一言で表すのは難しいほどに複雑なものだった。
ただ一つ、確かなのは、病気を厭う気持ちよりも、過去の自分が肯定されたような安心感の方が遥かに大きかったということ。普通ではないと感じていた私は、正しかったのだと、自分の努力や意思とは関係のない、別次元の問題だったのだと思うことで、本当に気が楽になった。同時に、病気に依存しないためか、病気であることに私が落胆しないようにするためか、判明していたはずの病名をしばらくの間教えてもらえなかったことが、とても悲しかった。もっと早くにわかっていれば、自分を攻撃することもなかったのに。殺意を剥き出しにする自分に、怯えることもなかったのに。抱えていた正体不明の生きづらさは、自分の個性を完全に超えたものであることを知って、私は自分に優しくなることができた。
人生の半分以上を、この病気に支配されて、共存して生きてきた。時に一日中眠ったり、太ったりした自分の外見を憎んだこともあったけれど、10年以上経って、やっと私は自分のことがわかるようになってきた。
この病気になってよかったと言えるほど、ポジティブに捉えることは、多分一生できないはずだ。私は多くのものを失ったし、たくさんの人に迷惑をかけた。それをなかったことには絶対にできないのだと確信できるほど、今にも千切れそうな毎日を繋ぎ合わせてきた。
けれど、もしこの病気を、神様か誰かがランダムに振り分けたなら。少し世界線が違えば、こんな経験をする羽目になったのはきょうだいやクラスメイトだったのかもしれないと思うと、少し安心することができるのだ。
この病気になったのが、私以外の誰かじゃなくて、本当によかった。それだけは断言できる。