
「私、SEKAI NO OWARIの大ファンなんです」
そう言うのには、どことなく違和感がある。間違いではない。それはわかっている。わかっているけれど、「ファン」というありふれた言葉を使うのは、何だかしっくりいかない。
でも私にとってセカオワは、「推し」という言葉でも形容できない。確かに、毎年のようにライブに行って、グッズを買って、リリースされたアルバムも購入して、毎週のラジオを聞いて、出演するテレビ番組は全部見て、新曲の情報も真っ先に手に入れている。それでも「推し」と言えないのは、私にとってセカオワが「応援する対象」というよりも、「私を生かしてくれる居場所」だからだ。ライブで拍手を送る時も、CDを繰り返し聴く時も、私は応援しているというより「救われている」感覚に近い。音楽を聴くという行為の中で、私は彼らに力を与えているのではなく、彼らから力をもらっている。だから「推し」という言葉に含まれる『応援する側とされる側』の関係性が、どうしても自分の感覚と重ならないのだ。
だからといって、「リアコ」なんかでもない。メンバーを恋愛対象に見ることはなかった。私にとって彼らはもっと大きく、もっと遠く、そして同時に驚くほど身近な存在だ。憧れでもあり、支えでもあり、友達のようでもあり、導き手のようでもある。恋愛感情に収まるはずのない、もっと複雑な関係性を私が勝手に築いていた。
私にとってセカオワは、もっと揺るぎない存在だった。大袈裟じゃなく、命を救ってくれた存在。私の人生において、欠かすことのできない存在。そんなセカオワに対する私のことを「ファン」や「推し」、「リアコ」と表現すると、どうしても軽々しく感じられてしまうのだ。
そうした悩みを人知れず抱えている中で、腑に落ちる言葉を最近やっと見つけた。
私にとってセカオワは……。
私にとってセカオワは、人生の道標だった。人生という壮大な迷路を歩き続けるために必要な羅針盤。月の見えない孤独な夜も、凍てつくような寒い朝も、すぐ近くでそっと灯る明かりがある。「こっちだよ」と呼びかけるように、音楽や言葉を発信してくれる。そこにはいつもセカオワがいた。人生の道標が立っていた。だから私は生きてくることができたし、これからも生きていく道が示される。その道を歩いていく限り、私にとってセカオワは、いつまでも人生の道標であり続けるだろう。