
自分の文章を読んで、「まるで場面緘黙症が意思を持って生きているみたいだ」と思ったことがある。
それは漠然とした私の表現だったが、きっと自分でもコントロールできない症状に悩まされていたから、そういう感覚が生まれたのだろう。
場面緘黙症と「出会い」、「支配」され、「声を奪われる」。
緘動が、「やって来る」。
そう、場面緘黙症は、まるで生きているようだった。
ある日突然私の中に転がり込んできて、喉を、脚を、指先を、すべて支配していく。社会的な場面に遭遇すると、スイッチが入ったようにすべての動きが鈍くなる。喉に力が入らなくなる。自分の意思とは、全く関係なしに。
場面緘黙症は、確かに私の中に生きていた。
もしかすると、意思を持って生きている病気は、場面緘黙症だけではないのかもしれない。生きている病気は、抗うことができないほどに私を縛り付ける。けれど、それに縛られている私もまた、生きている。生命が共存するのは、この身が裂けるほどの痛みを伴うものだった。