
私は高校生の頃、遺書を書いた。
気を抜けば、ふらふらと死の方へ傾いてしまいそうな時期だった。
いつ終わっても後悔しないように——そう言えば聞こえはいいけれど、実際は、踏ん張る力がもう残っていなかったのだと思う。
もう死んでもいいや。
それは衝動というより、諦めに近かった。長い悲しみが積もりに積もった結果、自分自身を越えるほどの大きな山になっていた。
目の前にある問題のすべてが、私がいなくなれば消えるように見えた。
少なくとも、当時の私はそう信じていた。
「さようなら」と言う資格もない。
「ありがとう」と言って逝けるほど、立派でもない。
ただ、最後に教えて欲しかった。どうすればよかったのか。
遺書には、不完全燃焼の感情が延々と渦巻いていた。
たくさん考えたのだ。
たくさん、たくさん、たくさん考えたのだ。
どうにかして、生きる術を探した。
でも、そのいずれかで生きていくことが、私にはできなかった。
私がこんなことを言うのを許されるのなら、最後にお願いがあった。
『どうか、自分の中に非を探さないで』
あの時にああ言えばよかった、とか。一言でも声をかけていれば、とか。無理にでも引き留めるべきだった、とか。
そんなことをされても私の運命は変わらなかったと、断言できた。すべては、私の弱さが招いた結果だったから。
『健康な体に感謝しています。
美味しいごはんに感謝しています。
温かい家庭に感謝しています。
優しい友達に感謝しています。
溢れる愛情に感謝しています。
脆いこころは、もう限界でした』