
文化祭の朝は、父が車で高校まで送ってくれた。
くじ引きの接客は男女でローテーションすることに決めて、女子は法被のようなものを来て先に接客することになった。お店の奥には、景品であるランチボックスやピーラー、おろし金や自転車までもが律儀に並んでいた。私の役目は、お客さんが引いたくじ引きの景品を渡すことだった。杖を使いながら、なるべく急いで景品を見つけ出さなくてはいけない。ほとんどが外れの景品であるお菓子だったので、昨日作った箱に入れられた大量のお菓子をお客さんに差し出していた。なるべく笑顔で、帰って行く時には、「ありがとうございました」という言葉を添えて。アルバイトなんてしたことなかったし、文化祭でも接客なんてできたことがなかった。できるとも思っていなかった。でも、想定外に訪れた人生初めての接客は、ぎこちなくともきちんと終わらせることができた。
去年の文化祭は、廊下の人混みや賑やかさに怖気づいて、トイレにこもって泣いていた。あの日から一年。進んでいるのか戻っているのかよくわからない毎日だったけれど、ちゃんと前進していたのだということを実感した。
私の体調を心配した母は、わざわざ高校まで遊びに来てくれた。ちょうど控室へと化した学習室で休憩していた私は、彼女からの連絡を受け取って廊下に出る。母は私の体調を確認して、ほっとしたように息を吐いた。
「受付に卒業生の親なんて項目はないって言われたよ。考えてみればそうだよね」
そう笑っていた。私は彼女を見送って、また学習室に戻った。
お昼すぎ、限界が来て、学習室で休んでいる途中にパニック発作がやって来た。最初は息がしづらかっただけなのに、だんだん過呼吸になって、手足が痺れて、意識が遠のく感覚に陥った。隣に座っていた元クラスメイトが、困ったように私のことをちらっと見て、学習室から出て行く。
お店を回っていた響ちゃんたちが学習室に帰って来る。彼女らは私に気付いて、特に看護学部に進んだ元クラスメイトはずっと私の背中をさすりながら、正常な呼吸を取り戻すのを手伝ってくれた。「呼吸ができなくなるシステムも、授業で習ったんだー」と、場が重くならないように気を遣ってくれながら。
その後保健室に移動して、1時間くらいベッドで休ませてもらった。斎藤先生に、「卒業したのに、保健室使っちゃってごめんなさい」と謝ると、彼女は首を振って、「全然だよ。むしろ、体調悪い中手伝ってくれてありがとう」と言ってくれた。
みんなの元に戻って、「ごめんね」と謝ると、友人たちは「謝るな!迷惑とか、思わなくていいから」と叱ってくれた。
文化祭の後、みんなとごはんを食べに行って、カラオケにも行った。カラオケでは歌わなきゃいけないんじゃないかと思って震えていたら、響ちゃんが隣で手を握ってくれた。でも結局、私は歌ってみることにした。卒業式の後のカラオケを思い出して、上手く歌えなかった記憶と再会する。あのまま終わらせたくない。治り続けようとする場面緘黙症をさらに乗り越えるリハビリだと思って、「私も歌ってみようかな」と口にできた。声が震えて、喉が狭くなって、全然上手く歌えなかったけれど、私はみんなの前でも、こうして自ら歌うことができるようになったのだと思うと感慨深かった。
カラオケには菊池先生もいて、12人分の料金を支払ってくださった。
文化祭が終わった。何を得たのかは、自分でもよくわからない。でも、少しだけかもしれないけれど、去年までに置き忘れたものを、確実に何か得た気がした。
翌日は死んだように眠り続けて、その日から数日に一回しかお風呂に入れなくなった。ベッドかソファの上で悶え苦しむこと以外、何もできない。食事もろくに摂れなくて、トイレに行くのもやっと。体力がすごく落ちて、めまいも酷くて、家の中でさえ歩くことも難しい。
やっと闇から抜け出せるまでに、1か月以上かかった。