
私が死んだら、お葬式には誰が来てくれるのだろう。先生や友達は、私を救えなかったことを一生後悔するのだろうか。
遺影にできそうな写真を、スマホのアルバムから探す。
今死ぬなら、これがいい。
でも、勝手に選ばれた写真が気に入らなかったらどうしよう。それなら生きているうちに希望を伝えておくべきだろうか。
花は何がいい? 宝物は? 音楽は?
家のソファで横になったまま、そんな妄想の中にいた。
死にたい気持ちに襲われた時、母は「気を逸らした方がいい」とテレビのリモコンを渡してきた。でも私は、その気持ちに浸っている方が楽だった。
自分が死んだ後のことを考えると、不思議と少し落ち着くのだ。痛みを越えた向こう岸にいる私は、どこまでも続く自由を手にしている気がして。そんな自分に縋っていた。
死ねばいいのに。死ねばいいのに。死ねればいいのに。
そうは思っても、簡単に死ねるわけがない。
大学がなくなって、私は義務から解放された。それでもなかなか、うつ病はよくならなかった。常日頃「死にたい」と思っている生活ではないけれど、たまにその引き金を引いてしまう。
今も、その最中だった。
こういう時は、もう過ぎ去るのを待つしか方法はない。もどかしいが、それが現実だ。
ただその現実を、少しでも楽に過ごす方法として、私は自分の死後を考えていた。
「また入院するか」
「今すぐ病院行って、点滴打ってもらおう」
私が死にたくてパニックになるたびに、母は本気なのか、脅しなのか、よくわからない様子でそう言った。
そう言われると、あの入院生活を思い出して、私はますます取り乱すのだった。
きっと私がいなくなったら、周囲の人々はしばらく私から逃れることはできないだろう。申し訳ないな。申し訳ないけれど、忘れられる方が悲しいな。本当は、死なないのが一番なんだろうけれど。
でもそう思えない時は、妄想の中にいていい。現実を生きていくためには、時に現実から離れる時間が必要だ。
私はそうやって、あの日をやり過ごしていた。