
「いいな」と言われたことがある。
「病気があって、入院できて、ちゃんと『許される理由』があっていいな」と。
私の苦しみを軽視されたようで、悔しかった。でもその反面、納得してしまう自分もいた。返せる言葉が見つからなかった。
そうだよな。考えてみれば私も、病名がつくまで、個性と病気のラインが引けずに、「理由」がないまま普通の生活を送らなければいけないのは、本当に大変だった。
世間はいつでも、「理由」を求めるから。
「何で泣いてるの?」「何で苦しいの?」「何で死にたいの?」
そう訊かれるたびに私は、「何で?」と思っていた。
何で、理由がないといけないの?
わかっている。苦しいのは「何となく」であること。周りを納得させられるような「理由」がなくて、それなのに抱いてしまうこの感情を、誰にも受け止めてもらえないこと。明確な理由もないのにこんな気持ちになってしまうことが、一番苦しいのに。
そこまで言語化できるようになったのは、その問いを抱えてから十何年も経ってからだった。
だから、今の私から伝えたいこと。
理由がなくても、「苦しい」と言っていい。感じる気持ちがあるのなら、そこに嘘も偽りもないはずだ。
でも、多分、世の中はそんなに甘くない。理由がなければ、休むことも許されない。私たちが生きているのは、そんな意地悪な世界だ。
でも、誰も信じてくれないのなら。せめて自分だけは自分の味方でいて欲しい。
こんなことを書いている私も、全然自分の味方になれない。幸せなことに、周囲の人たちは私のことを理解して、守ろうとしてくれている。それなのに、私は、私だけは、いつまでも自分に冷たく、毒を吐き続けている。自分を好きになろうと、誰よりも味方でいようと、努力した。でもやっぱり、希望を抱くことが怖い。
そう。本当は、怖いだけなのだ。「大丈夫っしょ」と現実を軽視して、余裕をかましていたら、いつか大きな絶望が、私を迎えに来るんじゃないか。希望を見てから絶望を感じた時ほど、辛いものはない。それなら、最初から希望なんか持たない方がいい。今までの経験から自分を極限傷付けないようにした結果、働いたこの思考は、きっと一種の防御反応なのだろう。
……こんな私が書いた文章には、説得力がないかな。
ただ、年齢も性別も職業も関係なく、理由なんかなくても、涙を流してもいい。「苦しい」と言ってもいい。そんな世界であって欲しいと、心から願っている。
自分の痛みを、せめて自分だけは、認めてあげて。
何の計画性もなくこの記事を書いていて、ふと思った。
これはきっと、私が私に言いたかった言葉なんだ。