
ドラマや映画、音楽や小説の中から得た私の知識によると、親は自分以上に子供を大切に思うものらしい。自分のすべてを捧げても構わない。ただ子供の幸せを願う。そういう生き物らしい。
私は親になったことがないので、親から子供に対する愛情を完璧に理解することはできない。ただ、私は親になったことがないので、子供サイドの愛情なら理解することができる。
子供は自分以上に親を大切に思う。自分のすべてを捧げても構わない。ただ親の幸せを願う。そういう生き物だ。
一見、これは素晴らしいイコール関係になっていると思われる。お互いを尊重し、心から愛する。でも時にこれが、両者に痛みを与える。
私の経験の場合、それは病気だった。うつ病になって、私には希死念慮が訪れた。自分はいない方がいい。今ここに生きているこの瞬間も、周りの迷惑でしかない。死んでしまいたい。今すぐに。
それが親のためになるのだと、本気で信じていた。私がいなくなれば、きっと楽になると。
でも母は怒った。「それだけは許さない」と。当時の私は自分のことで手一杯で、そう言われた時は、もう私は生きることも死ぬことも許されないのだと言われた気分だった。
今になって、あれは私たちがお互いを大切に思うがゆえに起きた亀裂だったのだと思う。楽になって欲しい。死なないで欲しい。それぞれの真っ直ぐな願いが、真っ直ぐすぎるがゆえに交差してしまった。
私は今でも、両親に幸せであって欲しいと願っている。もし彼らが病気になって、移植が必要にでもなれば、躊躇いなく自分の臓器を差し出したいと思う。
でも母はそれを拒否した。「子供から臓器を奪ってまで生きたくはない」と。だからきっと、もし母が病気になって、移植が必要になっても、私は自分の無力さを痛感しながら、彼女が弱っていくのをただ見ることしかできない。
愛することは、愛せることは、この世の何よりも美しいものだ。もちろん、すべての親子がこのような愛情を持ち合わせているとは思っていない。自分の親が愛せなくても、自分の子が愛せなくても、それは自身を責める必要もないことだ。親も子供も、お互いを選べるわけじゃない。愛し合う親子が、たまたま運がよかった。それだけのことかもしれない。
私はきっと、幸運な家庭に生まれたのだろう。自慢に聞こえるかもしれないが、自分の幸福度を理解せずに、不幸自慢する方が失礼な気がするので、あえてそう書いておく。
幸運な家庭に生まれて、愛情を受けて育って、苦しみの中にいる時も、家族のことを考えていた。
「あなたに、私より幸せになってもらいたい」
「でも、私はあなたが幸せじゃないと、幸せにはなれない」
今回の場合は親子だったけれど、これが友人だったり、恋人だったりする場合もあるだろう。私はきっとこれから、たくさんの愛に触れ、癒され、苦しみ、生きていくことになる。
そして考え続けるのだろう。
それでもきっと、愛の方程式は永遠に完結しない。