
大学で、手話の授業を履修した。
先生は大学専属の職員ではなくて、手話通訳士の仕事も掛け持ちしているらしい。初回の授業で先生は、「私が手話を始めたきっかけは、息子が盲ろう者だったからです」と、手話交じりにお話ししてくださった。同じ履修者の中には、ろう者の学生もいるのだ。
私が手話を始めたきっかけは、私が場面緘黙症だったからだ。
病気や障害の種類は違えど、声でコミュニケーションを取ることができないのは、私とろう者の人々に共通していることだった。
だからなのか、昔から手話に親近感を抱いていた。声がなくてもコミュニケーションを取れる方法があるんだ! これなら私でも、自分の気持ちを伝えられるだろうか。
でも、YouTubeで手話の動画をいくつも見ても、最終的には「手話を上達させるためには、実践が一番!」と書かれていた。
無理だと思って、諦めた。声がなくてもコミュニケーションが取れるとはいえ、手話は表情まで言語になる。場面緘黙症で表情すら動かない私には、手話というコミュニケーション手段すら絶たれていた。
でも、今ならできる。授業のたびに毎回緊張して、まだぎこちなさは残っているけれど、それでも手話だけで、自己紹介をすることができた。
日本語でも韓国語でも英語でも、手話でも文章でもコミュニケーションが取れる。日本語ですらコミュニケーションが取れなかった私にとって、これらはすべて武器だった。そして同時に、様々な人々を引き寄せる、磁石のようなものだった。
今日から、毎週お昼休みに「手話カフェ」が開かれる。学内でポスターを見た瞬間、「行きたい」と思った。知らない場所に、一人で足を踏み出すなんて、今までの私じゃ考えられないことだった。
でも、もし手話が少しでもできれば、それは直接コミュニケーションを取れる相手が格段に増えるということだろう。
声なき人々の声を、聴くことができる。
声がなかった私の声だって、きっと誰かに届くはず。