
人生で初めて髪を染めようと思ったきっかけは、母からの勧めだった。
「染めてみたら?似合うと思うよ」
正直、「そんな簡単に言われても……」と思った。髪の毛を染めるということは、美容室に行き、美容師さんといくつもやり取りをして、長時間椅子に縛り付けられ、お金を払って、ようやく手に入るおしゃれだろう。
それでも結局美容室の予約を入れたのは、日に日に好奇心が大きくなっていったからだった。大学でよく観察してみると、綺麗なミルクティーベージュに染めた髪の毛を両三つ編みにしている子がいた。まるでアニメのキャラクターのような彼女を見て、「かわいいな。私も、あんな髪にしたら似合うかな」と考えた。よく周りを見回せば、髪の毛を染めている子はたくさんいた。大学にも、高校時代の友達にも、テレビで見るアイドルにも。
元々私は、家のすぐ近くにある、小さな美容室にしか行ったことがなかった。そこを一人で切り盛りしている美容師さんは、私の病気のことも理解してくれ、何も話さず髪を切ってくださっていた。中学生になっても、高校生になっても、母と一緒に行って、彼女が私の代わりに要望を伝えてくれる。それでもやっぱり美容室は緊張する場で、3年に1回くらいしか訪れていなかったのだけれど。
けれど、今回髪を染めることにした美容室は、駅前のビルのワンフロアにある、美容師さんやそのお手伝いさんが何人もいるお店だった。そこに決めた理由は母と妹が既に通っていたからで、母からは今までのところでもいいと言われたけれど、「今どき風にしてもらいたいなら、あっちの方がいいかもね」ということで、私は新たな美容室に足を踏み出してみることにした。
秋の始め、病院の帰りに、母と2人で美容室を訪れた。母が担当美容師であるリサさんに私を紹介する。リサさんは20代前半くらいのおしゃれな女性で、母も妹もお世話になっている美容師さんだ。
「わー、蘭ちゃんかと思った。そっくりですね!」
「そうですか?」
リサさんの声に、母が納得のいかないような返事をする。実際私も、蘭と顔が似ていると思ったことは一度もない。「そっくりだね」と言われたことは、何度もあるのだけれど。
そうして最初に私とリサさんを繋いでくれて、母は先に家に帰った。一人で挑戦してみたいと、私が申し出たのだ。
場面緘黙症の人は、知り合いよりも初対面の人の方が話しやすい傾向にある。例に漏れず、私もそうだった。初対面の人の前では、「場面緘黙症のこころ」というレッテルがない状態で話すことができるからだ。
「よろしくね、こころちゃん」
「よろしくお願いします」
私は事前に紙に書いておいた要望を彼女に伝え、カットが始まった。
「蘭ちゃん黒髪にしたでしょ?こころちゃんが髪染めたの見たら、またやりたくなっちゃうかもね」
「でも、黒髪も気に入ってましたよ。かわいくしてもらったって」
「ほんと?よかったぁ」
蘭は以前、校則を破って茶髪にしていた。メイクもスカート丈もスマホも、あの子は守っている校則の方が少ないんじゃないかと思う。でも、先生方の冷遇に懲りて、黒髪に戻したのだ。
無言の美容室しか経験したことがないので、最初はあまりの会話の多さに戸惑った。でも、少し体調がよかったからか、調子に乗って積極的に話した。自分の中にいる、場面緘黙症の私に勝ち誇るように言う。「ほら見て。私はこんなに他人と話せるようになったのよ」
リサさんと話している私は、まるで夢見ていた「普通」の女の子のようだった。
カラー剤が頭皮につき、ヒヤッとする。しばらく放置した後、シャンプーをして、髪を乾かして、最後に毛先を巻いてもらう。すべての作業は2時間程度で終わった。
「どうですか?」
合わせ鏡で髪の毛を見せてくれながら、リサさんがそう訊いてくる。
鏡には、明らかに髪色が明るくなった自分が映っていた。
わあ、かわいい。
ついそう思ってしまってから、勝手に恥ずかしくなる。
こういう時は、何と答えるのが正解なんだろう。自分で自分のことを「かわいい」と言うのもおこがましい気がして、曖昧に頷く。
「ありがとうございました」
エレベーターまでお見送りに来てくださるリサさんにお礼を言って、扉が閉まる。
外には冬に近付くことを知らせるように、冷たい空気が充満していた。
建物のガラスに映る自分を見るたび、テンションが上がる。
初めての一人美容室を成功させたことと、新たな髪色に浮かれていた。お母さん、勧めてくれてありがとう。私、また一つ前に進んだ気がするよ。
スキップしたい気持ちを抑えて、家に帰った。