
「はい、もっと大きな声で」
広い教室の隅で、私にマイクが向けられた。
私は数秒間凍り付いた。
韓国語の授業中だった。
先生がマイクを持って、発音の確認に教室を回る。一人一人にマイクを向け、上手くできたら次の子に移る。
指定された単語を一度読んだけれど、聞こえなかったのか先生はそう言った。
「もっと大きな声で」
ただそれだけの一言に、触発される記憶がいくつもある。
泣きながら音読をした。絞り出すような声を聞いて笑われた。こんな風に、何度も注意を受けた。
先生の声を聞いた瞬間、過去の記憶が脳内に溢れ出した。キューっと締まっていく喉を無理矢理こじ開けるようにして、もう一度慌てて同じ単語を読む。そうしてようやく、マイクは私の前から消えた。
入学前から保健室と相談して、各授業の先生方には配慮文書を送ってもらっているはずだった。配慮文書の内容は、私が抱えている病気や、それによってできないことの許しを請うものだった。その文書を読んでいないのか、はたまたこれだけの人数がいるから該当学生の検討がつかないのか、韓国語の先生はいつでも容赦なく私にマイクを向けた。何度保健室に相談しても同じだった。
お昼休みを挟んで、次の時間も授業が入っていた。毎回心理学科の先生が登壇し、自身の研究などについてお話しをしてくださる。その授業は学科全員が対象なので、大きなホールで行われていた。私はお昼休みの間から一番端の席を取って、授業が始まるのを待っていた。
はあ。韓国語が終われば、あとはこれを受けるだけで帰れる。この授業は当てられることも、発言が求められることもなかった。
だから、油断していたのかもしれない。
今日登壇した先生が大きなスクリーンに自分のパソコン画面を反映させた途端、下腹部を殴られたような衝撃が走った。
シーサーが、いた。
思わずスクリーンから目を逸らす。今すぐにでも、出て行きたい気分だった。でも、せっかく来れたんだから、出席しないと。
嫌な予感は、的中した。
聞かないように必死でよく覚えていないのだけれど、登壇した先生は沖縄の話をしていた。
「私のゼミに入ったら、沖縄にフィールドワークに行きます」
スクリーンが見えないように、机に突っ伏す。それでも耳は沖縄の欠片をいくつも拾ってくる。
授業が終わるまでの90分が、まるで拷問のようだった。
沖縄の、修学旅行の思い出が、フラッシュバックする。間違いなく、私の中ではトラウマ記憶になっていた。
私は逃げるように教室を去り、廊下のベンチで座った途端、もう動けなくなってしまった。ここから歩いて、電車に乗って、乗り換えて、また電車に乗って、バスを待って帰るなんて、とても無理だ。
辺りの学生がほとんどいなくなるまで、長い時間葛藤して、渋々保健室に電話をかけた。8号館で動けなくなったことを伝えると、「今から迎えに行くのでちょっと待っててください」ということだった。
結局私は迎えに来てくださった保健室の先生に車椅子に乗せられ、保健室まで運ばれた。
保健室ではオルゴールで夏川りみさんの「涙そうそう」が流れていて、どこまでも追いかけて来る沖縄に涙が出た。
本当は、苦しいなんて思いたくなかった。みんなみたいに、「楽しい記憶」のまま、ずっと保管していたかった。
それを許してくれないのは、まだ沖縄に取り残された私自身なのだ。